最終更新日:2014年10月01日
上里 春香(うえざと はるか)さん
全身性エリテマトーデス(SLE)
私がSLEと診断されたのは、高校3年生の8月でした。
最初の頃はただの風邪だと思い、家で寝ていたのですが全然熱が下がらず、病院に行って薬をもらって飲んでも下がりませんでした。
7月のほとんどは学校に行けず、布団から起き上がるのも辛かったです。いつもなら、たいていの事は我慢して平気なふりをしているのですが、このときばかりは我慢ができず見かねた母が、救急病院に連れて行き、そこで初めて膠原病ではないかと疑われました。
初めて聞く病名で、どんな病気か分からず直ぐにネットで調べました。するとそこには、「治らない病気。難病に指定されている」という文字があり、不安感でいっぱいになったのを覚えています。
10日後の検査結果で改めてSLEだと診断されました。
8月の始めに12日ほど入院し、プレドニンも20mgからスタートしました。プレドニンを飲んでからは、なかなか下がらなかった熱も直ぐに下がり関節痛も直ぐに良くなりました。「プレドニン凄い!!」と思ったのは今でも覚えています。
ほどなくしてプレドニンも15mgまで減り退院しました。
退院して4日過ぎたあたりから微熱を出しはじめ、結局退院して10日後には再入院することになりました。2回目の入院も3日後には熱も下がり、先生から「そろそろ退院してもいいよ」と言われ、うきうきしていた次の日に髄膜炎になってしまいました。髄膜炎で頭がものすごく痛くて、意識がもうろうとし自分がどういう状況なのか分かりませんでした。ただ覚えているのは、とても辛いなか沢山の検査をした事、ずっと私の手を握って「大丈夫よ!」と声を掛け続けてくれた看護師さんのことだけです。一番辛いときに声を掛け続けてくれた看護師さんにはとても感謝しています。
結局、2回目の入院は1ヵ月半に及びました。誕生日の前日に2回目の髄膜炎になったこと、そのせいで外出ができず、学園祭に行けなかったことはこの先忘れないと思います。
やっと新学期が始まって学校に行けたのもつかの間、今度は帯状疱疹で3度目の入院をしました。このときばかりは、「やっと学校に行けたのに」と思いました。
高校3年生ということもあり、進路の面では沢山悩みました。まず、卒業できるのかが微妙なとこでした。成績は大丈夫でしたが、どうしても出席日数がたりない教科があるかもしれないと言われました。母や担任の先生、校長先生などと話し合い課題をクリアなどして無事卒業することができました。一時は、休学して4月から復学することも考えましたが、卒業できるなら今の同級生のみんなと卒業したいと思い卒業しました。
進路の面では、元々ツアーコンダクターになりたくて専門学校に進学を決めていましたが、ハードな職業であること、日光過敏が強く出てしまうわたしの体質では難しいことが分かり、泣く泣く諦めることにしました。周りからは「諦める必要はない」と言われましたが、私自身がこの病気を持った中でツアーコンダクターという仕事をしていく自信がなかったのです。短期間に3度の入院をしたことで、その思いが強くなりました。
周りの友達はどんどん就職や進学が決まり、私だけが取り残されているという孤独感や焦りが心の半分を占めるようになりました。そこに卒業も危ういという話がさらに私を追い込み、悪夢を見てはわけも分からず泣いてしまう日もありました。心配を掛けたくないという気持ちがあり、常に平気なふりをしてすごしていました。
そんなとき、部活の顧問の先生から「医療事務なんてどうかな?」とある専門学校を薦められました。その専門学校の先生にも良くしてもらい、今では医療事務の仕事に興味を持つことが出来ました。医療事務という職業を通して「患者さんの支えになることができたら」と思っています。最初は、1年間の療養のつもりでしたが、今年の3月に足の付け根に痛みを感じ検査をしたところ、両特発性大腿骨頭壊死と診断され療養期間を2年に延ばすことにしました。病状が落ち着いて進学できる日が来るのが楽しみです。
壊死は、広範囲に出ていて将来的には人工関節や人口骨頭にする手術しか方法はないみたいなのですが、なってしまったものは仕方ないと思い前向きに頑張ろうと思っています。確かに出来ないことは多くなりました、骨をつぶさないように松葉杖生活を送っているので、一人で出歩くのは難しいし中学校3年生からやっているエイサーはもう踊れないですが、今は自分に出来ることを精一杯頑張っています。
高校も無事卒業し、不安もだいぶ軽くなりました。病気になったことで、制限されてしまうことも沢山ありますが、それと同じぐらい得たモノもありました。
私を支えてくれる人達やその人に対する感謝の気持ち、同じ病気の人達との出会い,得たモノのほうが多いかもしれません。好奇心旺盛でやりたがりな私に、「自分の体調を考えてから、やったらいい。」言ってくれる母や、病気で分からないことや不安なときに相談に乗ってくださる膠原病友の会の阿波連会長、青年会のメンバー、青年赤十字奉仕団のメンバー、沢山の方が私を支えてくれるからこそ楽しんで活動が出来ていると思っています。
私が悪い方にばかり考えがいかず、前向きに考えることが出来るのも沢山の方が支えてくださるおかげです。今度は私が‘支える立場‘になれたらいいなと思います。
こういった機会を与えてくださった、皆様に感謝します。私の体験が他の患者さんの支えや参考になればと思います。
特に同年代の患者さんに会う機会も少ないので、これを機会に若い人達の交流会など出来たらいいなと思います。
上里 春香(うえざと はるか)さん
平成7年 那覇市生まれ
趣味:音楽鑑賞
現在活動:
繁多川青年会で大好きなエイサーと旗頭のチンクを中3から現在まで続ける。
高校3年間を沖縄県青年赤十字高校協議会としてボランティア活動をしたのちに青年奉仕団へ入団、現在に至る。
アンビシャスではこれまでも難病により声を失った方がコミュニケーションを図る為の機器、各種意思伝達装置の貸出を行ってきましたが、予算も乏しくこれまでメーカーさんや、遺族からの寄贈品で運営を行ってきました。
その為、種類が限られる事と、台数が少なく貸出機によっては数か月待ちで、なかなか事務所に帰ってこない機種もありました。
この度、米国婦人福祉協会(AWWA)・沖縄国際婦人クラブ(OIWC)よりのご寄付を頂き、各種意思伝達装置の貸出機を購入、要望は多いが中々希望に添えなかった機種を購入しました。又、それぞれの患者さんの状況に応じ意思伝達装置を動かすスイッチも拡充させ、個々の状況に応じたスイッチの提案も可能となり、今まで以上に貸出機を利用される方への選択肢、貸出待ちの期間短縮が図れ、利用者のご要望に応えていきたいと思います。
これら機器の購入に当たりご支援を頂いたAWWA並びにOIWCの会員のみな様へ、心より御礼を申し上げます。
8月22日メガネ一番様より、創業27周年チャリティーゴルフコンペの収益から、アンビシャスと県視覚障害者福祉協会へそれぞれ33万円余りの高額な寄付を頂きました。
同社では沖縄県内の企業として常に地元に密着し、地元へ貢献するという企業理念のもと、創業日に合わせ毎年このようなチャリティーイベントを組み寄付を継続されています。また賛助会員としても長年アンビシャスを支えていただいています。
又、メガネ一番様以外にも個人のみな様、他より厚い志を頂戴しています。私たちはそのご好意に甘えることなくお寄せ頂いた志をしっかりと受け止め、難病支援活動に有効に活用させて頂きます。
本当にありがとうございました。
北部保健所主催で、拡大型心筋症の医療講演交流会、南部保健所では後縦靭帯骨化症(OPLL)黄色靱帯骨化症の医療講演交流会が行われました。保健所は年間事業として、ある疾患を選定し医療講演会と交流会を実施しますが、毎年実施されるとは限らないのが現状です。しかし、同じ難病を持つ人と交流することで、色んな情報交換ができたり、自分一人だけでは無いと気付きます。
アンビシャスの役割としては、保健所に頼らない自助グループを作りませんか?と提案させてもらいます。
臨床心理士 鎌田 依里(かまだ えり)
あなたは、安静を指示されたとき、どのようなことを思いベッド(もしくは布団)に横たわっていますか?
入院安静では、確かに、自宅に居られないことがストレスになる場合もありますが、同室になった入院患者さんや病院のスタッフと顔を合わせて話をすることができます。たとえお見舞いの方が来ないときでも、自分以外の誰かと話をすることができるし、急な体調変化にもすぐに対応をしてもらえるので安心です。
それと比べて自宅安静で家族がいない時は、一人でベッドの上ですごす時間が圧倒的に長くなります。話を聴いてほしかったり、他愛のない話を聞きたかったりする時にできなくて、さみしく孤独を味わうこともあります。ペットが自分の世話や話し相手をしてくれればいいのですが…。
痛みや発熱等が治まり少し体調が落ち着いてくると安静状態が暇に思えることもあります。考える時間が膨大にあり、落ち込んだり、希望や自信を失ったりすることもあるでしょう。そのような時には、意識して、今までの楽しかったことを中心に思い出すとよいです。写真を取り出して横になりながら見てもいいです。あえて楽しいことを想い体験するために、寝て夢の中で楽しい体験をするのでもよいでしょう。ただし、夢と現実を混同させて妄想の世界に入ってはいけません。あくまでも夢の中での体験というように認識をしていることが大切です。
自分のこれまでの言動を反省したり、見えない周りの方々の動きに想いを馳せ感謝をしたりするのもよいでしょう。
仕事をしたり趣味に高じたり、旅行したりすることは難しいですが安静時は、実は普段できないことができる時間です。できたら自己研鑽のための時間にできるといいですね。
著:照喜名通
8月後半に米国から始まった筋萎縮性側索硬化症(ALS)支援のアイス・バケット・チャレンジが沖縄にも上陸しました。簡単に説明すると、指名された人は、寄付をするか、氷水をかぶる、そして、3名の人を指名するといったイベントです。沖縄ではおそらく未来ファンドの小阪さんが最初だとおもいます。アンビシャスへの寄付もありましたので、ホームページをご参照ください。
イベントは色々賛否両論でしたが、特にALSの周知には巨大な経済効果?があったと思われます。実際に米国のALS協会には1億ドルという巨額の寄付金が集まったようです。
人数が少ない難病は殆ど周知がされていないのが事実で、アンビシャスも12年活動してきてもまだまだ知られていないようです。医療や福祉関係では知られてきているのですが、他のジャンルでは殆ど知られていないです。
昔から寄付を集める方法として、一時期にはホワイトバンドとかありました。共同募金は歳末赤い羽根、身近なところではチャリティゴルフなどもあります。
爆発的に広がると炎上したりもするので、やはり身の丈に合っている地道にコツコツと今の支援者を大切にし、困っている患者さんと真摯に向き合っていくことが私達の役割だと改めて感じています。
慶応義塾大学看護医療学部 教授 加藤 眞三著
前回、慢性病の時代を迎えていることを述べたが、慢性病と急性病では、その対処法が大きく異なる。心療内科医の永田勝太郎先生は、その医療の違いを、表のようにまとめている。(以下、慢性病と慢性疾患、急性病と急性疾患は同意)。
急性疾患の多くは、入院加療や家庭での安静により短期間に治癒する。そのために、その期間、患者は医療者の指示に従っていればよい。慢性病は治療が難しく生活習慣と深く関わることが多い。患者は病気を抱えて長期間あるいは一生の間日常生活を送ることになる。そのような慢性病では、患者も主体的に考えないと、病気を抱えての生活が上手くいかない。そのために、主導権は医療者から患者に移動する。
急性疾患は短期間に治癒する病気であり、治ってしまえば、患者は病気について知る必要もない。しかし、慢性疾患では、病気を知っていてこそ、良い療養生活が可能となる。そのため、病気や療養生活についての知識が不可欠であり、医療者からの教育的要素が重要になる。急性病では、治療により病気を治癒させることキュア(治療)が主目標であり、ケアは従となるが、慢性病では、根本的な治療キュアがないから慢性病になるのであり、ケアが主体となる。
急性病では安静にすることが強調されてきた。例えば、インフルエンザに感染すると、症状が強い時に無理に動かないほうがよい。ウイルス感染者に動き回られると感染が広がり、周りの人にも迷惑となる。だから安静が必要とされてきた面もある。ただし、急性心筋梗塞や脳卒中の後では、急性病でも最近は早期からのリハビリがすすめられる。開腹手術後に早期離床といわれ、手術翌日には歩くことが勧められる。「健康は体を動かすことにより保たれ回復される」ことが認識されてきたからだ。
慢性病であれば、運動の重要性はより一層増してくる。足の骨折で一ヶ月ベッドに横たわれば、誰でも健康が障害される。慢性病では、長期間あるいは一生病気が続くことを前提に、ある範囲内で運動をすることが重要になる。
特に、メタボリックシンドロームなどの生活習慣病は、主因が運動不足であり、運動が奨励される。慢性肝臓病も、一昔前には安静が強調されたが、最近では運動を行うことの重要性が認識されている。リウマチ病、慢性呼吸病、慢性心臓病、慢性腎臓病などの慢性病も同様だ。がんの発症予防や治療後の再発予防にも、適度な運動、有酸素運動が推奨されている。
以上述べてきたように、慢性病と急性病では対処の仕方が大きく異なる。にもかかわらず、急性病と同じ対処法で慢性病に対しても、やってきたのが現状だ。日本の主要病院は急性期病院だが、慢性病患者の大部分を外来で診療している。慢性病が主体となる時代を迎えて、慢性病のための医療体制を創出しなくてはならない。
今後、急性期病院の名前にとらわれることなく、慢性病に対応する医療体制の整備が必要である。慢性病ではとりわけ外来診療部門の充実が求められることになる。患者にとっても病気に対する認識や療養生活を変えていくことが必要になる。
患者の力: 患者学で見つけた医療の新しい姿
出版社: 春秋社
「患者には力がある!」 毎日を健康に生きるために、そのためにも、真の患者中心の医療を実現するために、いま必要なこととは。
保健所から在宅療養者支援者研修会で、病気の受け止め方、支援者に期待する事などについて、当事者の立場から話してほしいと依頼があった。
私の報告のあとは、神経難病専門医の講話を予定しているとの事。私は迷わずOKした。これをきっかけに外へ出られること、病気に対する思いを聴いてもらえること、マイトビーを使っているところを見てもらいたい事がその理由だ。しかし私が外に出るには多くの人と物が必要だ。私が楽にいられるようにと事業所と保健所の連携で会場にベッドが用意された。
娘、訪問看護師、ヘルパーに付き添われて保健所に着いてビックリ! 「ありがとう 諸喜田美智代先輩」と書いたうちわを持って、玄関に横一例に並んだ歓迎ぶりにじーんときた。
会場には支援者のほかに保健師も多く参加していた。私の原稿は、始めの部分をマイトビーに、 残りは娘に読んでもらった。研修会終了後、私のまわりに後輩の保健師達が集まってきた。
私は病気になる前、退職後やりたい事として病気で悩む人達の交流出来る場所を作りたかった。が自分自身も難病となり、これを実現できなかった。その事を知ってる娘は、今日私の周りに集まる保健師達を見て、「お母さんはまだまだ仕事がたくさん、後輩育成に忙しくなるね!今回のエッセイのタイトルも“生涯保健師”にしたら?」
さすがわが娘!そのタイトル貰った~(^o^)
友の会では交流会、勉強会、ピクニック等いろんな行事を行ってきましたが、今回はホテルのランチバイキングです。たまには皆で食事でもしながらお喋りしましょうということで 始めた食事会今回で2回目となります。参加者が少なかったらどうしようか、皆参加してくれるかなあ等の心配は要らなかったみたいでした。
多数の方が参加され「久しぶりねどうしてた」「元気にしてた」「調子が良いみたいね」「この薬を飲み始めて調子が良いよ」等会話も弾みあっという間に予定時刻になってしまいました。
今回もデザートは別腹だったみたいで、お腹いっぱいと言いながらもデザートを何度もおかわりされる方が何人も見うけられ結果、予定時刻を大幅に過ぎてしまいました。
記事提供:松藤さん
先月は友達と仲違いしてしまい、未だ修復のめどが立ってなくてしょんぼりしていました。
今月の会報誌はそんな心にウチアタイする言葉が多く、考えさせられるとともに勇気づけられました。
“こころの現場から”を読んで、私は友達と仲直りするためにはどうすればいいか?
ということばかりを考えて自分の本当の感情に向き合っていない、だから連絡するのをためらっているんだ、と気づきました。
自分自身がどう感じているか。人のせいにしない。自分を許し、友達を許す。
…何歳になっても人間関係は難しいナ…。
〈ジュウミー〉
言葉って大事ですね、言霊というのもあると言われます。
汚い言葉を使うと、人格まで汚れるようにも感じます。
相手への印象としては、マイナス思考の言葉。
「でも、~だし、だって…」や、相手を否定する言葉など。
そして、「構ってちゃん」タイプは敬遠されますね。
また、暴言も気をつけたいですね。
★渡久地 優子{進行性骨化性線維異形成症(FOP)}★
「わたしの半分」
頼りない
細い「糸」でも
「半」分ずつ
引き寄せれば
大切な「絆」になるんだ
糸の半分
案外近くにあるはず 見つけてみよう
原田 安津季
【追悼】ロビン・ウィリアムズ 享年63歳
2014年8月11日に、名優が一人、亡くなってしまいました。コメディからシリアスまで多くの作品を観ました。
ガープの世界、いまを生きる、キャデラック・マン、レナードの朝、フィッシャー・キングトイズ、ミセス・ダウト、ジュマンジ、 バードケージ、ジャック、ファーザーズ・デイ、フラバー、グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち、パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー、奇蹟の輝き、聖なる嘘つき/その名はジェイコブ、アンドリューNDR114、最高のともだち、ナイト ミュージアム、ライセンス・トゥ・ウェディング、奇跡のシンフォニー、などは見て欲しい。
他に、ストーカー、インソムニアは、違った顔が見られます。
★渡久地 優子{進行性骨化性線維異形成症(FOP)}★
・・・カラーセラピーやパワーストーンも好きで、時々、ネットで見てます。
先月の会報誌「7月の報告あれこれ」の記事で、「特別警報の台風8号」の説明に使用した台風進路図が「実際の台風と関係が無く読者に誤解を与えたのでは」とのご指摘を受けました。台風の脅威を強調したいあまり、過去に使った進路図を安易に掲載し読者の皆様に誤解を招いてしまい深くお詫び申し上げます。
編集部として反省すると同時にこの紙面を本当に良く読んでいただいているという感謝でいっぱいでもあります。
この会報誌は読者のみな様と一緒になって作っていく情報誌と考えていますので、今後ともご意見、ご感想がありましたら遠慮なく事務局までお寄せ下さい。
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