最終更新日:2016年03月01日
比嘉 信子(ひが のぶこ)さん
網膜色素変性症
病気と分ったのは石垣島に住んでいた小学校6年の2学期が始まったばかりの頃でした。
遊びに夢中で取れてしまったボタンを付けようと針に糸を通そうとしたら、針の穴が見えなかったのです。部屋が暗いのかと電気を点けても見えず、おかしいと思いながらもさして気にもしませんでした。しかしその様子を見ていた母は「もしかして目がおかしいのか」と翌日近くの眼科へ私を連れて行きました。診察を終えた先生が深刻な顔で「あなたはやがて眼が見えなくなるよ」と言われました。私は何のことか分らず「だって先生の顔よく見えるよ」と先生に応えましたが、先生は「そうだね、今は見えるね、でもこの病気は網膜色素変性症という、原因も治し方も分らないとても難しい病気なんだよ」と説明してくれました。私も母も半信半疑で直ぐには信じられず、丁度巡回診療で石垣に来島した有名な眼科専門医の診察を受けましたが、その先生の診断も同じで「治療法もなく、いずれ失明するので盲学校に入れなさい」と言われました。
その頃の私は目が見えなくなる恐怖で夜も眠れず、不安な毎日を過ごしていました。そんな私に父が「信子の目が見えなくなる事が信じられず、手術でも何でもいいから何とか治して欲しいとお願いしたけど、無理だと言われた」と泣き出し「目が見えなくなると、これからとても苦労すると思う、でもどんな時でもお父さんとお母さんが守るし、信子と一緒に戦う」と言ってくれました。その父の言葉で今までの不安が消え、その日を境に夜も安心して眠れるようになりました。
成長期と重なった為か、その後の進行は速く日に日に視力が失われ半年後の卒業式にはほとんど見えず、担任の先生に手を引いてもらい卒業証書を受け取りました。
小学校卒業後、両親と離れて暮らすことになるとは知らず、生まれて初めての飛行機が嬉しくて、母と一緒に沖縄盲学校へやってきました。母は先生から「夏休みまではどんなに会いたくても学校に来てはいけません」と言い含められ、私が学校内を案内されている間に私を置いて黙って帰りました。残された私は母に捨てられたと思いとてもショックを受けました。
盲学校では私も含め多くの生徒が寄宿舎暮らしで、ほとんどの生徒が小学部から持ちあがりで、一人ではどこにも行けない私と違い白杖を使い自由に歩いていました。
学校では、まず初めに教科書を読む為の点字から覚えなければならず、点字の読み書きに集中しました。まだ中学生で頭も柔らかかったのか3ヶ月位で読み書きは出来る様になりました。
その後一人で白杖をもって歩く歩行訓練に入りました。これが大変厳しい訓練で、最初の頃は先生が手を取り優しく教えてくれましたが、2ヶ月も経つと「今日からは一人で歩きなさい」と突き放されました。
当時、先生の付き添いで那覇の牧志にある眼科病院へ通っていたのですが、ある日一人で行くように言われ「もし道が分らなくてもあなたには道を尋ねる口がある、人の話を聞く耳もある、だから大丈夫、一人で行きなさい」と否応なく学校から追い出されました。仕方なく学校から石嶺にあるバス停まで杖を頼りに歩き出しましたが、あっちこっちでぶつかるは、どぶに落ち足からは血が出るは、全身傷だらけ、泥だらけの状態でそれでも何とかバス停に辿り着きました。そこから、いざバスに乗ろうとバスの運転手に行先を聞いても無言、乗り降りする人も知らんぷりと誰も教えてくれません。やっと一人の運転手が「牧志まで行くから乗りなさい」と声を掛けてくれ、牧志の眼科医院までたどり着きました。帰りも同じような状況で、朝の8時に学校を出て、帰ったのは夕方の5時過ぎになっていました。その日は眼が見えない現実をまざまざと突き付けられ、身も心もボロボロで、夕飯も食べずに頭から布団をかぶって一人で泣いていました。こんな状況に追い込んだ歩行指導の先生を恨み、こんな生活がこれから続くのならいっそ死んでしまおうと、学校の屋上から飛び降りようとしましたが、その瞬間、両親の顔が浮かび「止めなさい」という声が聞こえ、飛び降りる事は出来ませんでした。
それから1年経ち、一人で杖を使い歩ける様になったある日、買い物帰りの私にあの意地悪な先生が声を掛けてきました。私は無視しましたが、先生は私の手を取り「信子さん1年前一人で病院に行ったこと覚えている?」と聞いてきました。「もちろん覚えているさ、あの時どんなに辛かったか先生は知らないだろう」と言い返しました。そうしたら「信子さんあなたは知らないと思うが、あの日先生はずっと陰から見ていたんだよ」「あなたがあちこちでぶつかり、どぶに落ちてケガした時、どんなに飛び出して、もういいよと言いかけたか」「でもそこで手を貸したらあなたは二度と自立できない、だから心を鬼にしてこらえていたんだよ」「あなたも辛かっただろうけど、先生も辛かったんだよ」と、おっしゃいました。その時まで私にだけ辛く当たる意地悪な先生だと思っていましたが、まだ一人で歩けない私を一人前にするため、あえて突き放した先生の深い愛情に気づき、先生に「すみませんでした」と心からお詫びしました。
その時の厳しい指導のお蔭で今はさほど不自由なく行動が出来てとても感謝しています。
その後、高等部専攻科で鍼灸・マッサージ師の資格を得て二十歳で同学校を卒業しました。
卒業後は夢だった電話交換手を目指し沖縄コロニーセンターの訓練生募集に応募しました。しかし沖縄コロニーでは電話交換手の科だけ専任教師がおらず全て独学でした。電話交換手の基礎教科書を購入し、ボランティアの方に読み上げてもらい録音、それを点字にして独自の教科書を作り、その教科書で勉強しました。また発音やイントネーションの勉強はNHKの日本語の時間という番組で繰り返し声に出し学びました。
それから2年程して大きなチャンスがやってきました。県よりアビリンピック(全国障害者技能競技大会)で電話交換手の部に出場したところ初出場でいきなりの金賞!
その時の審査委員長は私が電話交換手の資格を持ってない事を不思議がり、試験を受けさせてもらえない事情を知ると、ツルの一声で門戸が開かれ資格試験を受験、沖縄で全盲の電話交換手第1号という栄誉を頂きました。それから沖縄コロニーで20年間電話交換手の仕事をしてきました。
電話交換手の仕事を始めて5年くらい経った頃、那覇市の社会福祉協議会より市内の小学校で生徒に障がい者の立場から講話をして欲しいと要請され、少しでも障がい者に対する理解を深めてもらえればとお受けしました。それを機に多くの学校や企業から講話の依頼が多くなり、とても一人では受けきれないので、他の障がいを持っている人達と沖縄福祉教育研究会というNPO団体を立ち上げ手分けして福祉教育コーディネーターとして講演活動、福祉教育活動を行っています。このような活動の中、日経ビジネスで講演をした縁で同校の講師として週1回授業を受け持つようになりました。将来医療事務に携わる生徒達に障がい者への理解を深め、窓口業務に役立ててもらう事を目的に教えています。
結婚後、主人と開業した鍼灸・マッサージのシオン治療院と並行してビジネス学院の講師、福祉教育コーディネーター、障がい者生活相談員と毎日忙しく過ごしています。
このような充実した人生を送れるのも、盲学校時代の先生方の厳しくも愛情深い指導のお蔭と心から感謝しています。
1月16日(土)に県内全ての難病患者団体に呼びかけて「患者会~顔の見える関係づくり~」をテーマに会合を持ちました。今までも個々に患者会同士のお付き合いはありましたが、各患者会が横の連携を目的に一堂に会すのは今回初めてとなります。
各患者会の形態も全国組織加盟の沖縄支部があれば、県内あるいは地域ごとの交流会もあり、運営法もそれぞれです。また設立10年以上の団体もあれば、設立したばかりの団体もあり、年数が長いところは長いなりに、又新しいところは未だ手さぐりの運営とそれぞれに課題があり、その解決策や参考になるところをディスカッションしていこうと企画しました。全ての団体の参加とはいきませんでしたが、宮古・石垣を含め11団体19名、保健師さんも5名参加され、アンビシャススタッフを含め27名の参加がありました。
【協議内容】
各患者団体より設立年数、会員数、会費を含め具体的な活動内容について発表
各団体の課題、他の団体に聞きたい事等、情報交換
・患者会役員・事務局の世代交代、新しい人材の確保が各団体の共通の課題として挙がり、膠原病友の会より、役員になる事で得られるものが有り、それぞれの得意な事で力を発揮してもらう事、それぞれで褒め合うこと、自分で自分を褒めることなど、楽しんで団体運営に携われる環境づくりの工夫が紹介された。
・新規会員の勧誘に関しては交流会の案内方法が重要との認識で一致。郵送や電話、メールが一般的だがコストがかかる事と役員の負担も大きい。工夫事例として全国筋無力症友の会より、アンビシャス会報誌の患者団体案内とアンビシャスを通した新聞2紙の情報欄へ交流会案内を掲載する方がコストをかけず効率的との助言があった。
また後縦・黄色靭帯骨化症友の会でもアンビシャス会報誌を積極活用しており、各団体とも新規加入者へアンビシャス会報誌の購読申請を勧め交流会案内に活用したいとの結論に至った。
・沖縄県網膜色素変性症協会からは新しく設立された団体へ、バスツアーなどのレクリエーションを実施する場合の費用の捻出方、参加者の募集方等、具体的なアドバイスがあった。
【総評】
参加者のみな様からは他団体の具体的な話が聞け、今後の団体運営の参考となりいい刺激を受けた。
他の団体の方と親しく話す機会が持て、声を掛けやすくなった。との感想を頂きました。また今回参加出来なかった団体にも呼びかけ定期的に開催して欲しいとの要望も頂きました。特に設立間もない団体にはとても参考になったようです。
2016年1月現在、沖縄県内の難病患者団体は大小合わせ15団体あり、今後も増えていくと予想され、各患者団体の横の連携は今後ますます重要になると思われます。
アンビシャスではこれから新規に患者団体を立ち上げようとするグループや、今回参加出来なかった団体にも積極的に声を掛け「顔の見える関係づくり」を継続し、各団体の円滑な運営のお手伝いと団体相互の連携を今後も図っていきたいと思います。
臨床心理士 鎌田 依里(かまだ えり)
難病を抱えて生きていると、遠出という体調悪化の要因を回避でき、外出せずに横臥した状態で相談できる電話相談がとても役に立ちます。その反面、相談をする方は自ら万障繰あわせ体調も数日前から整え相談料金を持って相談に赴くこととは異なり、誰に構うこともなく自宅で着の身着のまま都合よい時間に通話料金のみで電話できる電話相談自体を軽く捉えてしまう傾向があります。
電話相談の良さを生かすためには、電話での相談を受ける場合に、(1)今回の相談の目的を明確にし話を整理する、(2)「○○と理解をしたけれどそれで合っていますか」等と相手に自らの理解度を確認する、(3)手っ取り早く相談できる電話に依存しやすく対面して話をする機会を減少させる傾向があるので、社会性を失わせないためにも電話相談の後にいつか一度でも対面して話ができる場合があればぜひお会いする、ことが有効です。
また、相談者に主体性をもってもらうために、電話相談を紹介する時や相談を受ける始めの段階で「話を聴いてもらうのはいかがですか(←相談者が受動的になりやすく、世間話を話すように相談内容が浅いままになる傾向がある言い方)」ではなく、「ゆっくりお話をして(←あなたのお話を傾聴しますというメッセージが込められた言い方)、一緒に考える機会にしませんか(←相談者自らが悩みを解決できるよう、アドバイスを聴いた上で考える力を育成する言い方)」をする、といった工夫も有効です。
相談をする方も、相手が自分のために電話口に神経を集中してあなたの話を傾聴している状況を、対面している以上に思いやって話をすると、気持ちも繋がり、対人関係も繋がり、より有益な相談時間になると思います。
著:照喜名通
ご相談を受けて感じる事ですが、自身の身に起こっている事や気持ちをなかなか整理できない状況の方が多いように思えます。うつうつとして頭の中で問題が次々と駆け巡り、何をどうしたら良いのか、何から手を付けたら良いのか判らなくなってしまっているのです。
相談では問題そのものというより、現在抱えている問題に至るまでの過程を次々と説明し、そのきっかけとなった人物等を問題の根源として憎悪する方がいます。また、このままの状態がずっと続く様に思え、将来に希望が持てず、生きている価値さえも感じられず、やがては自殺願望まで湧いてくる方もいます。
その様な状態の相談でも、じっくりお話しをお聞きして、その流れを一緒に整理していくと少し解決の糸口が見えてきたりします。その様な時には、一つの価値観にとらわれている事が多いので別の見方、考え方が出来ない状態なのです。過去は変えることは出来ません。しかしまだ来ない将来は変えることが可能なのです。将来を変えることが出来るのは、まさに今この時なのです。今、何を選択するかの連続で生きていくのです。想い悩んだ時は過去を無視して、今というキーワードを常に頭に留意しながら出来ることを選択して生きていきたいものです。
慶応義塾大学看護医療学部 教授 加藤 眞三著
感情労動という言葉を昨年9月の公開講座「患者学」で初めて知った。感情をコントロールすることを求められる職業としての労動をそう呼ぶ。ひょっとするとこのことが現代の医療をゆがめている一因かもしれないと考えるに至ったため、今号では感情労動について、再考してみたい。
従来は、肉体を働かせる肉体労働、頭脳を働かせる頭脳労動など二つに分けられていた。しかし、近年の社会では、対人関係の仕事などで感情を商品として提供する労動が必要とされることから、ARホックシールドは客室乗務員などの仕事を例としてあげ、感情労動と呼ぶことを提唱した。
その後、看護師などの医療者や介護士など他の職種でも感情労動の部分が大きいことを指摘されてきたが、現代社会では官公庁の広報部や会社の苦情処理係などをはじめとする多くの一般のサービス業においても感情労動が要求され大きなストレスになっていることが話題になっている。
もちろん、医療職には、頭脳労働の部分もあり肉体労働の部分もあるが、感情労動としての部分がかなりある。例えば、患者がどんな無理難題を言ってきても怒りを表さずやさしく笑顔で対応する、どんな緊急事態が起きても患者にあわてたそぶりを見せてはいけない、どんな悲しいことがあっても泣いたり取り乱してはならないなどが感情をコントロールするべき例としてあげられよう。
実際、病気になった患者さんやその家族は、病気になったことに対する怒りを看護師など医療者にぶつけてくることもあり、それに一々反応していては仕事が進まないし、自分の身も持たないから自分の感情を抑圧する。医師は、科学者とし医療を提供することが求められているから、いつも冷静に客観的に患者さんに距離を置いて接することが必要と思っている面もある。
このような態度は、病院の経営者や上司から要求することもあるだろうし、医療者自身がそうでなければならないと考えていることもあるだろうし、患者さんもそれが当然だと思っている面もあるだろう。
実際に、医療者の教科書にこのようにするようにと書かれていなくても、それが医療者の間で不文律のように引き継がれてきた面もある。武井麻子氏の表現によれば「たとえ相手の一方的な誤解や失念、無知、無礼、怒りや気分、腹いせや悪意、嫌がらせによる理不尽かつ非常識、非礼な要求、主張であっても、自分の感情を押し殺し、決して表には出さず、常に礼儀正しく明朗快活にふるまい、相手の言い分をじっくり聴き、的確な対応、処理、サービスを提供し、相手に対策を助言しなければならない」「その職業や職場にふさわしい、適切な感情というものが規定され、それからはずれる感情の表出は許されない。また、たとえ適切な感情であっても、その表出の仕方や程度に職務上許される一定の範囲がある。」ということになる。
その一方で、医療者は患者さんの気持ちに共感せよと、感情を共鳴させることももとめられている。つまり矛盾するメッセージが医療者には届けられている。
(次号に続く)
参考文献:
武井麻子「感情と看護」 医学書院 2001年
パム スミス「感情労動としての看護」 ゆみる出版 2000年
ARホックシールド「管理される心」 世界思想社 2000年
患者の力: 患者学で見つけた医療の新しい姿
出版社: 春秋社
「患者には力がある!」 毎日を健康に生きるために、そのためにも、真の患者中心の医療を実現するために、いま必要なこととは。
常人はえてして予期しない不幸が身に起きた時、なんで自分がと思うでしょう。
私もそんな思いがなかったわけではないが、それより思うのです。
眉毛が薄い私は洗顔のたび眉を書くのが面倒で眉墨をしました。
またあまりの字の下手さからワープロを習うつもりが、どうせ習うならパソコンがいいと進められ習うことにしたのです。
保険は高度障害保障タイプにしました。これは身体に異常を感じ始めた時すぐに加入しました。
また発症前引っ越した先は車いすがゆったり通れる環境だった。
このようなことから何故私が、と思うよりも
眉墨をした事、パソコンを習った事、高度障害保険に加入した事、引っ越した事、加えて言えば改修工事から細かな事をもこなし、療養環境を整える事に長ける夫だった事まで、このALSという病に備えてのことだったのかと思ったりする。
そう考えると面白い。
今までスポーツ系の行事は無理と思っていましたが、交流会時の雑談でボウリングの話をした所、会員の方が「今は器具や設備など揃っていて障害があってもほとんどの人が出来るよ」と言われたのでさっそく下見に、その通りでした、そこで12月19日(土)友の会初のボウリング大会を『石垣あやはにボウル』で行いました。ほとんどの会員が生まれて初めてということもあり、少し興奮気味にゲームを楽しみました。
まさかと思われるかもしれませんがストライクを出す方やスペアをとる方もいて、気分は興奮最高潮、いやぁ何でも思い込みは駄目ですね。これからはスポーツ系だけでなく色んな事にチャレンジしてみようと思います。ボウリングが済んでもボウリング談義に花が咲き楽しい1日でした。
神経難病友の会 松藤
先日、病院で出会った難病と診断されたばかりの若い女性が訪ねてきて、薬の事、子育ての事、旦那さんとの事、涙を流しながらたくさん話し「ありがとう、また来ていいですか?」とお礼を言って帰った。
嬉しかったのは?私の方かも「話す、聞く」病名は違っても難病患者だから伝わる事がありますよねー!
〈ペンネーム「おばけの口」〉
難病がある方や家族の方、サポートする方々で日常感じている悲しみ、辛さ、笑い、皮肉や優しさなどを短歌・川柳にしてご応募ください。
採用の方には寄稿料として千円相当のクオカードを進呈します。詳細は事務局までお気軽にお問い合せください。
難病川柳
散歩道 ありんこにまで 追い越され
作:ペンネーム 樹々さん
散歩中、足がすくみ立ち止まると、足元を蟻が元気に通り過ぎて行った。
何秒でも 代わってほしいわ この身体
作:ペンネーム てぃーださん(全身性エリテマトーデス)
難病と何秒を掛けてみました。
言いようのないだるさで寝返りもうてない程の時や、痛みの時は、ちょっとでいいからこの辛さをわかってほしいと思うのです。
見やすいギャング・バイオレンスもの
共に日本劇場未公開&97分の作品で、其々に絡み合い・交差していくオムニバス形式の作品で、見てソンはないと思います。
「ニューヨーク、狼たちの野望」2009年/リュック・ベッソン製作 仏・米合作
人の男と、3つの視点、交差していく。
3人の男とは、ギャングのボス、浄化槽の清掃員、聾唖のデリ店員。日常生活を自在に操れるリモコンが手に入ったら、どうしますか?
ファンタジーコメディで、考えさせられもする作品。
「狼たちの報酬」2007年/メキシコ・米合作
裏社会のギャングを中心に、7人の運命が複雑に絡み合う。
人生は4つの感情「幸」「喜」「悲」「愛」に分類されているという古代中国の言い伝えに基づいて作られており、韓国系アメリカ人監督が手がけた。
★渡久地 優子{進行性骨化性線維異形成症(FOP)}★
・・・カラーセラピーやパワーストーンも好きで、時々、ネットで見てます。
年明けから天気が目まぐるしく変わり、沖縄初(観測史上)の雪が降ったかと思えば、もうセミが鳴くのかと思える暑い日、その後の寒気と体調維持が難しい日が続きますが、みな様くれぐれもご用心願います。
さて今月の表紙は網膜色素変性症の比嘉さんにお願いしましたが、比嘉さんの波乱万丈の物語はとても2頁には納まりきらず、2回に分けることも検討しましたが、内容をかなり絞りダイジェスト版にまとめました。別の機会がありましたら改めてご紹介したいと思います。
またエッセーは各方面からご好評を頂き、引き続き松田さんにお願いしました。さりげないユーモアでくるんだ松田さんとご主人の日常風景が目に浮かび、思わず微笑んでしまいます。
そして当誌のシリーズ「患者学」でおなじみの「加藤眞三」教授の市民講座(3月6日)がいよいよ迫ってきました。医者任せにしない自立した患者像についてご講演の予定です。
参加費無料ですのでみなさんふるってご参加ください。
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