最終更新日:2016年09月01日
登川 正美(のぼりかわ まさみ)さん
筋ジストロフィー
発症ははっきりとは覚えていませんが中学3年の頃だったと思います。しかし、その頃はまだ歩けるしスポーツもしていました。
高校生の頃も自覚症状はほとんどなかったのですが、病気の進行を抑える注射を打つため当時与儀に在った沖縄整肢療護園に、高校在学の3年間は毎日通っていました。
卒業後は県内で公務員として50代まで勤めその間、多少手の動きにぎこちなさは感じましたが治療のために病院へ通う事もなく普通に生活をしていました。
50代になった頃、病状がかなり進行したため止む無く早期退職しました。しかし、いざ退職したら途端に暇な時間が多くなり、何か楽しみを見つけようと独学で絵を描きはじめました。これまで特に絵が好きだという事も無かったのですが、体が動きにくくなる中で「何か出来ることはないか」と考えている内に絵を描くことが浮かびました。初めて通信教育で油絵の画材セットを手に入れ、当初は妻の協力で外に出かけては風景を描きました。
しかしだんだんと外出も難しくなり、筆も重く感じるようになったので、比較的筆がスムーズに動く水彩画に変更しました。
題材は沖縄野鳥研究会の「嵩原 健二」氏の地元紙やカレンダーに掲載された、野鳥や動物の写真をもとに自分なりのアレンジを加え描きました。 握力が弱いうえ震えもあるため、震えが収まる一瞬に集中して色を紙の上に置くように重ね、それを何度も繰り返し1枚の絵に仕上げていきました。腕が疲れるため一日に描く時間も限られ、一枚の絵を仕上げるのに一ヶ月程もかかりました。この様に時間をかけ完成させた絵の集大成として、昨年「沖縄の生きもの」という画集にまとめ上げました。
嵩原さんの写真を参考に描き始めたのが縁でお近づきになれ、画集の発行の際にも嵩原さんや沖縄タイムス社の安里真己さんからは色々なアドバイスを頂きました。そのご協力もあり私の想像以上の作品集に仕上がりました。
見てくださる方がいましたらこれ以上の喜びはありません。
最近は脳出血や糖尿病の影響で視力も落ち、筆を握る力もなくなり、絵を描く事が困難になりあきらめました。
は若いころから多趣味で仕事の傍ら様々な事に関心を持ち楽しんできました。
漢詩にも興味があったので20代から詩吟「神心流」を習いました。声高らかに吟じるのは楽しく、15人ほどの門下生と共に発表会の舞台に立つことが出来ました。また老人ホームや公共施設、刑務所などへ慰問やチャリティー公演をするなどいろいろと経験させて頂きました。
その当時、県内には詩吟連盟がなく各流派が一同に集まり、初めての合同詩吟発表会を盛大に行うことができたのは良い思い出です。また草花が好きで、それを表現するために草月流の生け花を習いました。
本家の家元先生をお迎えして、無事に県支部が設立されるのにも立ち会い、家元主催の生け花講習会に参加したのも思い出深いです。
それから職場では囲碁が盛んで、私も先輩方から囲碁を教えてもらい、あちらこちらの囲碁クラブで腕試しをしました。職場大会で優勝したこともあります。他の地方大会では五段戦まで進んだこともあり大変嬉しかったものです。やり始めるとのめり込むタイプなのか、どの趣味もある程度のレベルには達していたと思います。
私はいつも思うのです。足が動かず車いすになり、手も思うように動かなくなった現在。この様に失った機能を嘆いても仕方ない。今使える機能を存分に使い、今出来る事、楽しみを見つけていこうと。過去は過去として、今後どう生きて行こうか。悔いのないように何をすべきか。どの様に自分を活かしていくべきか。そんな風に思うのです。
最近はカラオケの他、俳句や短歌作りが楽しみとなっています。 リハビリ施設で仲間とカラオケを存分に歌い、日々の出来事を毎日欠かさず俳句や短歌にしてノートに書き留める。その様にして書き留めた詩もいつの間にかノート六冊分にもなりました。
字は利き腕の右手で書きますが、右手は上に上げることが出来ないので、机に手を寝かせたまま、滑らすようにゆっくりと書いています。しかし句が浮かぶのは昼間とは限らず、夜ふと寝床で良い句が浮かぶときは、妻にお願いして口授したものを書き写させています。この様な私を妻は献身的に支えてくれました。ずっと共稼ぎで、苦労も多かったと思いますが離れずそばにいてくれました。深く感謝するばかりです。
現在、自力で歩く事も出来ず、車いすの生活ですが「水の中だったら自分の足で歩けるのでは」とほのかな希望を持っています。どなたか水中での介助が出来る方がいればご紹介ください。プールで歩く訓練をして、水中でもいいので「自分の足で」歩くことが私の今の挑戦目標です。
最後に一句
小さなこと できる嬉しさ 生きていりゃ(2016年7月20日 作)
登川 正美(のぼりかわ まさみ)
1947年那覇市生まれ
中学3年の頃発症するが、日常生活に大きな支障はなく50代まで公務員生活を送る。
その後病状が進行したのと、脳出血が重なり早期退職。退職を機に絵を描きはじめる。
2015年10月 画集「沖縄の生きもの」を出版、現在に至る。
7月より初の試みとして、毎月第3火曜日午後1時半から3時半の2時間、ハローワーク那覇「難病患者就職サポーター」の國仲さんによるアンビシャスでの出張就労相談を開始しました。
今月は「現在就労中だが、もう少し条件の良い仕事を探したい」、「病気治療が落ち着いたので仕事を探したい」という2組の方が求職相談に来られ、病気の状態について確認させていただいた後、就労において配慮が必要なことや希望する職種や収入など、就労に向けての基本的なお話を伺いました。
今後も、ハローワークと連携して相談を継続し、納得のいく求職活動ができるようにサポートしていきたいと思います。
ハローワークの窓口だと人が多く、落ち着かない方もいるかもしれませんが、リラックスした雰囲気で就労の相談をしてみませんか。
「難病であることを会社に伝えた方がいいだろうか」「難病患者の就労を支援する制度について知りたい」「どのような職業を選べばよいのか」など、お仕事についてのお悩みをお持ちの方はお気軽にご相談ください。
また、難病をお持ちの方を雇用されている、または、雇用を検討されている事業主の方のご相談もお受けしています。
ゆっくりと相談できるように予約制になっておりますので、時間厳守でお願いします。
*経過報告
難病患者就職サポーターの國仲さんより、出張相談後ハローワークの専門援助部門へ求職登録をした方から1名の就労が決まったと嬉しい連絡がありました。
那覇市では毎月1回、全保健師が一堂に会す「保健師連絡会議」があり今回、特別にお時間を割いて頂き、アンビシャスの難病支援活動の概要説明をさせていただきました。
同保健所では昨年度より全ての保健師が難病に関わる事となり、全ての保健師に難病についての理解を深め仕事に活かして頂く事を目的に、昨年に引き続き難病相談支援センターとしての活動やその他支援活動の説明をしました。
沖縄県では台風による停電も多く停電に備え、特に保健師さんとの連携が重要となる非常時の電源確保策の説明や県のバッテリー等貸与事業の概要説明、また難病により声を失った方への意思伝達装置の体験貸し出し、今後注力していく就労支援等について重点的に説明させていただきました。
アンビシャスでは難病のみな様のQOL(生活の質)向上を目指し、各保健所やその他関係機関との連携を今後とも強化して参ります。
那覇市保健所のみな様、指定難病の受給者証の更新手続きでお忙しい中、貴重なお時間をいただきありがとうございました。
臨床心理士 鎌田 依里(かまだ えり)
ピアサポートでも日常会話でも人の話を“きく”ときに大事になることは、“聞く”でもなく“訊く”でもなく“聴く”であるということはご存知だと思います。
いわゆる“傾聴”は、人が会話中の「なるほど」という言葉を《きちんと聴いてもらえている》と受けとる傾向があること、「ふむふむ」という相槌を《もっと話をしてもいいんだ》《この人は自分の話を聴いてくれている》と感じる傾向があることを活用したカウンセリングの技です。
このような傾聴の技はピアサポートでのこころの癒しを生み出す際にも日常生活での人間関係を円滑に進める際にも効果的ですし、実際に自分が相手の話をしっかりと聴いていることを伝えたいときにもとても有効です。
その反面、この技を身に付けると聴いているピアサポーター自身がこころから納得して《なるほど》と感じられていない段階でも、聴く技だから…と焦り「なるほど」と伝えてしまうことがあります。
このような場合、3ヶ月程するとピアサポートもうまくいかない事態になります。
技が先行すると、こころが言葉に伴わない事態に陥るきらいがありますが、この事態を防ぐためにも、ピアサポーターのこころに素直に生じたことを言葉にしようと意識することが大切です。ピアサポートで一生懸命に話を聴きつつ、わからないことを素直に時々伝え返すことを繰り返していると、自然に相手に、一生懸命に理解しよう努力し力になりたいと思っていることが(その瞬間ではなくても何年も経って振り返った時にでも)伝わるものです。
一生懸命に聴いている、そのピアサポーターの姿勢によっても、人は自らの存在価値を再確認し、癒され、自ら生きていく力を回復させていくのです。
著:照喜名通
9月といえば、過去に関東大震災や伊勢湾台風が発生していて、台風の本土上陸も多く甚大な被害をもたらす事が多い時期です。
天災は忘れた頃にやってくるといいますが、常に備えを忘れないようにしておきたいものです。
地震等に比べ台風は予測できる災害です。気象予報が発達した現在、台風の進路はかなり正確に予測されてきました。しかしながら沖縄では毎年のことなので慣れてしまい、台風が来てもつい「我が家は大丈夫だろう」と気持ちが緩みがちです。
いざ台風が接近してから、あわてて電池を買いにいったら、どこも売り切れで「もっと早く準備しておけば良かった」と後悔したことも何度かあります。
最近は以前のように停電は少なくなったとはいえ、停電になるとテレビは見られない、携帯電話のバッテリーが切れインターネットの災害情報も閲覧出来ない、暑くて寝苦しく、全く快適ではありません。
その様な停電時でもカーバッテリーとインバーターさえあれば数時間の電源は確保できます。
その備えが予期せぬ地震など他の災害時に役立つのです。
「沖縄は台風のおかげで災害に強い県です」と言える日を目指し、まず我が家を快適に過ごせるように準備しています。
慶応義塾大学看護医療学部 教授 加藤 眞三著
前回まで、医師(医療者)との関係性が未来に向かって変わってきていることを述べてきた。しかし、患者にとっても医師(医療者)にとっても、両者の関係性は歴史的な経過の中にしばられている部分があり、そこから抜け出せないという現状がある。
そこで、今回は、医療の歴史から両者がどのような関係性を経てきたかを振り返り考えてみたい。なお、ここで医師と表記するのは、医療を施行する者を表しており、現代社会の医療は多職種のチームにより行われているため、医療者と置き換えることもできる。
医療の知識も技術も未熟な時代には、病気は不可知なものであり医師は呪術者として病気を治す役割をになっていた。命をおびやかす重い病気になって、患者が最後に頼るのは神仏であり、超自然的な感覚をもつ神の代理人として医師がいた。
この時代には、どんな病気であっても最後に頼れる存在として医師の役割があったが、現代の医師はこの役割を放棄していることが多い。
その後、個人的な経験が積み重ねられ医療の智慧が集積する。専門家、つまり医師、の間でその智慧が独占され伝えられてきた時代が長く続く。智慧を蓄えた医療の専門家が的確に判断して患者を治すという時代では、正解は専門家である医師のみがもっており、父親と子供のような関係性で医師は患者に接することになる。ヨーロッパではソクラテスの医療の時代である。
患者は父親のように指示し医療を施してくれる医師を頼もしく感じる。その反面、素人の患者には文句を言わせないという厳しい父親としての一面がある。
16世紀以降の近代科学の進歩とともに、やがて、その考え方が医療の世界にも持ち込まれてくる。医療は個人的な経験の積み重ねではなく、多くの患者のデータを統計的に処理した上でえられる証拠(エビデンス)に基づいて提供することが医師の役割であるとの意識が医師の間に芽生えてくる。病気には原因があり、その原因を取り除くことが医師の役割となる。原因を究明するためや治療法の開発などが患者一人の命よりも重く、科学の進歩を優先する考えを持つ研究者としての医師が出現する。
科学者としての医師は、対象としての患者を冷静に、そして距離をおいてみることがトレーニングされる。患者は医師からの冷たい視線を感じ、研究材料として利用されるのではないかと感じる。
さらに、社会の進展とともに、医療は社会制度の一部に組み込まれてくる。医師は科学者としての側面だけでなく、社会制度の中で保険医療を施すことが許された特定の集団の一員という側面を持つことになる。医師は、健康保険で許された範囲の中で医療を行うことが求められ、患者は医師を通してその社会が提供する保険医療を受けることが可能となる。ある一定以上の水準が医療に確保されることになる。
患者はどんな治療であっても良いと思われるものなら何でも施して欲しいと希望するが、医師の側は保険で定められた範囲の中で医療をおこなうことが要求されている。
次号に続く
東洋経済オンラインに加藤先生による「市民のための患者学」2週間ごとの連載スタート!
http://toyokeizai.net/articles/-/143366
患者の力: 患者学で見つけた医療の新しい姿
出版社: 春秋社
「患者には力がある!」 毎日を健康に生きるために、そのためにも、真の患者中心の医療を実現するために、いま必要なこととは。
(豪華クルーズ船で行く屋久島旅行 1日目)
妹が「兄貴、歩けるうちに家族旅行に行こう」といい出し、段取りは全部妹が、父・母・僕と家内、弟夫婦・妹夫婦・姪っ子、家族11人で豪華型クルーズ船、パシフィックビィーナス、全長183.4メートル、全幅25メートル、乗客員数620人、乗組員220人で、4月19日の4時に那覇港を後に屋久島へ向けて出港。
6時30分からレストランでバイキングでの夕食を、美味しい、夜食も有る、そばかラーメン、24時間コーヒーとショートケーキは食べ放題、ダンスホールに弟と2人で行き、久しぶりに踊り20代を思い出した。映画館、プール、カラオケ、マジックショーでは観客100人ほどいた「面白い」他の遊技場いろいろ全部無料、カジノは有料。
船の操舵室見学、凄い装備がいっぱい有る、それから僕は客船の中をゆっくり歩いて全部回って見ました「ホテル並だ、凄い。」 翌朝屋久島到着、桟橋に動くリゾートホテルが接岸、6時30分よりバイキングでの朝食「おぅ美味しい」
11月号へ続く
難病がある方や家族の方、サポートする方々で日常感じている悲しみ、辛さ、笑い、皮肉や優しさなどを短歌・川柳にしてご応募ください。
採用の方には寄稿料として千円相当のクオカードを進呈します。詳しい応募要項は10頁をご覧ください。
難病短歌
忘れ物 財布の時は まぁいいか 薬の時は 慌てて戻る
作:ペンネーム 樹々さん(パーキンソン病)
財布を忘れてもお金を使わなければいいが、薬が無い(飲まない)と動けなくなってしまう。ホントに変な病気!!
難病川柳
だれ語る テレビと日暮し 話してよ
作:登川 正美さん(筋ジストロフィー)
介助者がいないと外出もままならず、一人のときはもっぱらテレビが話し相手。
夏休みにオススメしたい好きなシリーズもので、大人も子供も楽しめます。
「クロウ/飛翔伝説」 1994年作
恋人を殺された男が、死の国の使者であるカラスの神秘の力を得て復讐するというもので、ブルース・リーの息子、ブランドン・リー主演。
しかし彼は、空砲のはずの撮影用の拳銃に何故か実弾が入っており撮影途中に28歳の若さで事故死している
※ちなみにブルースは享年32歳。
撮影はほとんど済んでいたが、一部でCGを使ったといい当時としては画期的。
★渡久地 優子{進行性骨化性線維異形成症(FOP)}★
・・・カラーセラピーやパワーストーンも好きで、時々、ネットで見てます。
去る4月16日(土)一般社団法人全国膠原病友の会「平成28年度全国膠原病フォーラム」が初めて沖縄で開催されました。大会の成功に向け九州・沖縄ブロックが結集して準備、地元沖縄の方はもとより全国からの会員をお迎えし盛会の内に無事終えることができました。
当日は、沖縄県の医療提供の歴史から現在に至るまでを、豊見城中央病院の塩平芳樹先生に、また「最近の膠原病治療の動向」と題し慶応義塾大学医学部教授 竹内勤先生にそれぞれわかり易く参考になるご講演を頂きました。
また沖縄県子ども生活福祉部 安里栄作氏により、膠原病患者が利用できる施策や利用状況のご説明を頂きました。
その後「膠原病とともに希望を持って暮らすために」(私たちのねがい)をテーマに、青森県支部副支部長 永森志織氏の「膠原病患者を対象とした生活実態調査」より問題提起がなされ、当事者および家族の代表によるパネルディスカッションへと移り活発な意見交換がなされました。
ここ沖縄から全国へ最新の膠原病治療の動向また、難病法における福祉サービスのこれからの課題を発信する事ができ、充実したフォーラムとなりました。
開催にあたりご協力・ご支援、ご指導くださった方々へ心より感謝申し上げます。
9月、全国的には「初秋の候」とか「残暑見舞い申し上げます」と書き出すところですが、長い沖縄の夏、まだまだ夏真っ盛りと言ったところでしょうか。
読者のみな様、引き続き熱中症には気を付けてお過ごしください。
さて今月の表紙は筋ジストロフィーの登川さんに語って頂きました。
多少のハンディはあってもいろんなことに挑戦してきた若い頃、そして年月と共に失われていく機能を受け入れ、今出来る事をフルに活用してアクティブに活動している姿に大いに反省させられました。私は自分の可能性を引き出しているだろうか、いい加減なところで妥協していないか、持てる能力を活かさないのはもったいないですよね。
明日から頑張ろう!(←今日から頑張れ!)
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