最終更新日:2018年04月05日
三宅 好子(みやけ よしこ)さん
若年性特発性関節炎……難病を持つ娘のいる一家庭の様子
現在28歳の娘が(※1)若年性関節リウマチ(JRA)を発症したのは13才、中学1年生の冬でした。
小さい頃から運動が好きで、中学入学時にバレーボール部に入部し、1年生ながら一人だけレギュラーに選んでもらうほど頑張る子供でした。最初は肩の痛みを訴え、長引く痛みに大学病院の整形外科を受診し、若年性関節リウマチ(JRA)との診断がつきました。
内科のリウマチ専門医への院内紹介を受け、積極的な治療が始まり二か月ほどで痛みや腫れが軽減されたのですが、その状態は長くは続かず、リウマトレックスという免疫抑制剤の量を増やすことが続きました。
日常生活に於いては、学校を休むことを嫌い担任の先生に会うのを楽しみに通学していました。娘に「スポーツをあきらめる」ということをどう伝えるべきか、私自身も娘の病気をどう受け止めたらよいのかもわからないまま、次々と学校生活での問題に直面してゆきました。しかし、どこまでを学校に頼んでよい範囲なのかの判断が難しく、日頃から先生と連絡を取ることを心がけ娘の様子を知ってもらうようにしました。病状が表に出ていなかったため、友達の理解は得にくく学校生活は辛かったようでした。
病状は一進一退を繰り返し、15歳で生物学的製剤のレミケードを開始しました。レミケードは大変効果があり、高校入試も制度を利用することで乗り切り、新しく始まった高校生活は充実していましたが、半年ほどたった秋頃、突然両足の股関節に激痛が走ったのです。血液検査に変化はなかったものの、娘も発症当初から検査値より腫れや痛みの訴えが大きかったため、だれもがリウマチの再燃を信じて疑いませんでした。
いろんな関節を痛がりほとんど寝込んだ状態となり、生物学的製剤をレミケードから自己注射のエンブレルを試すことになりました。
エンブレルに変えてから、4週間ほどで歩けるようになり、痛みが軽減されこのまま良くなっていくと安心したのですが、年明けから再び痛みが出てきて、それは、エンブレル開始以前よりひどく、完全に動けない状態となりました。箸すら持てず、首の向きを変えることしかできなくなったのです。
その痛みは、入浴時に湯船に浸かると揺れたお湯の表面が肌に痛く、湯船から出すと身体を伝うお湯が痛いというくらいでした。どんなに痛がっても擦ってやることもできず、痛い痛いと涙を流す娘に、「何もできなくてごめん」と言いながら、ただそばにいて手を握ることしかできませんでした。
そんな中で患児の4歳下の妹は、姉を心配し生活面全てをフォローして、私の心の支えになってくれました。まだ小学生で寂しい思いをしていたと思うのに、一番つらくて大変なのは姉だと思いやってくれていたのです。私はせめてもの思いで、下の娘と一緒に過ごす時間も大切にするように心がけていました。
痛みが軽減されることはなかったのですが、医師は毎週のように様子を見てくださいました。しかし日々の生活は仕事や家事もあり、一人で自分と同じ体格の娘を日々全介助しながらの毎日で、体も心もクタクタでただがむしゃらに動くしかない感じでした。
そしてとうとう、主治医から私だけが診察室に呼ばれ、「これ以上のリウマチ治療はこの病院ではできません」との話を聞いたのです。
命に別状はないのはわかっていても、16歳で動くことができなくなったとの宣告を受けた様に感じ、これ以上の苦しみは味わったこともない思いでした。
話はさかのぼるのですが、調子が悪くなった10月頃、私が入会していた若年性関節リウマチの親の会であるあすなろ会の東京の理事から、年明けにある関西中国の集いのお手伝いに声がかかりました。私は自分が孤独で心細かった時に、この理事に助けられたことを思い、娘の状況は伝えず自分にできることがあるならとお手伝いを引き受けました。
このことが、その後の運命を変えたと思います。と言うのも、お手伝いをしたことが、あすなろ会の賛助医師にセカンドオピニオンを受けることにつながったからです。
そして、主治医がセカンドオピニオンを気持ちよく聞き入れてくださいました。
鹿児島まで検査を受けに行き、結果的に「線維筋痛症」の併発がわかりました。
痛みの原因がわかったことによる安心からか、行きはストレッチャーでの移動だったのに、帰りは歩いて帰ることができました。主治医と鹿児島の医師は帰ってきてからも、お互いに連絡を取り合ってくださって、スムーズに治療が進んでいきました。
やっと今度こそ、と信じたのに、やはりうまくはいかず、歩けたはずの娘は、また痛みが出てきたのです。
そんな中でも、娘は学校に行こうとし続けました。ただ、日々の高校生活で、親の私ですら、動けることと動けないことがあるというのは理解が難しいことでした。ましてや、担任の先生やクラスメートは理解どころではなかったと思います。しかし、線維筋痛症にとって、できているときにそのことを否定するようなことは、できることを無くしてしまうことに繋がり兼ねないと思い、私自身も言葉を飲み込み、何とか周りに理解を訴え続けました。そうやって高校生活を続けたのでしたが、これは、高校の友人、先生方、特に娘の頑張る姿を認めてくださった校長先生の理解があってこそのことでした。自分のペースを守ることができたおかげで、高校3年には普通に学校生活を送れる日も出てきました。大学入試も、将来の自分を見据えて医療の社会福祉士を目指し、自分の力で合格しました。
大学は2時間かけて、時には車いすでの通学でしたが、国家試験も乗り越え娘は現在、大学病院で(※2)MSWとして働いています。JIAに関しては、発症当時から一番予後が悪いと言われていたにもかかわらず、エンブレルが娘に合ったようで、今は治療を必要としない状態となっています。また、線維筋痛症もそれに伴い薬の力を借りることが無くなりました。
私たちに今があるのは、その時々でいろんな人との関わりが支えてくれたということをお伝えできていたら嬉しく思います。これからは、子供が療養中で孤立しがちな生活をしている家庭に関わりを提供できたらと思っています。
(※1)当時、若年性関節リウマチ(JRA)と言われていましたが、近年はJRAを含め若年性特発性関節炎(JIA)と言われています。
(※2)MSW 医療ソーシャルワーカー
三宅 好子(みやけ よしこ)さん
1963年奈良県宇陀市生まれ
橿原市在住
【趣味】読書 ゴルフ ハイキング
【好きな作家】乃南アサ 山本文緒
今年度最後のセカンド・オピニオンとして首里城下町クリニックの比嘉啓先生のご協力を頂き、膠原病系疾患のセカンド・オピニオンを2月26日に実施しました。今年はインフルエンザの大流行や年度末の急な仕事でキャンセルが何件かありましたが、キャンセル待ちの方もおり予定通り4件のご相談を受けました。
「病気と付き合っていく上で食事や生活面で気を付けることは何ですか?」「薬を飲んでいても数値が安定しないのは、薬が合わないせいですか?薬を変えた方が良いのでしょうか?」といったご相談がありました。なかなか外来ではゆっくりとお話しすることが出来ませんが、セカンド・オピニオンで不安や疑問に感じていたことをお聞きすることができたのではないかと思います。比嘉先生ありがとうございました。
今年度は5疾患のセカンド・オピニオンを実施し、徐々にではありますが対象疾患を増やし内容を充実させて参りました。次年度は下垂体疾患群を加え更に対象疾患を増やしていく予定です。
毎年2月末日は世界希少・難治性疾患の日(Rare Disease Day)として、難病に対する理解を深める事を目的に、日本を含め世界各地でいろんな啓蒙活動やイベントが行われており、沖縄でも県総合福祉センターの研修室を会場に開催しました。
今回は従来のパネル展に加え、初の試みとして各患者団体のご参画を頂き、それぞれのブースで団体紹介や相談が受けられるコーナーを設置、またハローワーク那覇のご協力で就労相談コーナーも設けました。この様に相談コーナーを設けた事や、地元新聞2誌による案内記事が掲載された事もあり、例年になく盛況で各コーナーとも相談の方が切れない状況でした。RDD日本本部からの提供パネルも充実していて、ご来場のみな様に難病に関する理解がより深まったと思います。
参加された患者団体からは「交流会では他の方も多く個々の相談が難しいが、ゆっくり相談が出来て良かった。」「自分の病気のことしか知らなかったが、他の病気の方が頑張っている事を知り、励みになった」等自分を見つめる良い機会になったとのご感想や、他の団体との交流も刺激になり充実した時間が持て、次回もぜひ参画したいとのご意見を頂戴しました。
今年は7団体のご協力を頂きましたが、来年は更に協力団体を増やし、内容をより充実させて参ります。
当日お越し頂いた数多くの皆様、ご来場ありがとうございました。
各難病患者団体が横の連携を築くことを目的に毎年「患者会~顔の見える関係づくり~」を開催していますが、今年は2月3日(土)に実施、5団体10名に加え那覇市保健所から2名の保健師が参加しました。
今回は各団体とも共通の悩みである、次期役員候補の見つけ方や育成法の他、交流会会場の確保策等それぞれの団体の現状や工夫、提案の他、保健師の立場からのご意見も頂き活発な意見交換がなされました。またアンビシャスからは軽症者についての注意点や情報提供と、間近に迫った世界希少・難治性疾患の日の運営について説明を行いました。
ご参加のみなさんからは「このように顔を合わせての会合はお互いに刺激になる。また他の団体の活動をお聞きして参考になる」「私たちの団体で取り入れられそうな事は取り入れていきたい」「何度か顔を合わせる事により、他の団体の皆様に親近感を覚え、毎回参加するのが楽しみです」等の感想を頂きました。
臨床心理士 鎌田 依里(かまだ えり)
難病や障害を抱えて生きる子どもの保護者の心配は尽きません。「自分が死んだらどうしよう」「この子ひとりで生きていくことがどうしたらできるようになるか」等、将来を見据え今どのような方針をとるかを日々考えています。例えば特別支援学校に在籍をすれば高等部を卒業してからの福祉的な枠での就労や訓練は用意されていますが、現在では医療的ケアを行いながら地域の公立学校の通常学級や特別支援学級に在籍をする子もいます。もちろんその子自身の状態と保護者の考え方、そして受け入れをする学校やそれを応援する教育委員会や地域の状況にもよりますが、「子どもに何を学ばせたいか」「子どもがこの環境で何がどれだけ伸びるか」「安全面への配慮はできるか」等を中心にして決定します。
一方で、自分の子どもを故意に傷つけたり病気にさせたりして病院を受診し、保護者自身が注目を浴びたい欲求を満足させる代理ミュンヒハウゼン症候群の保護者もおり、病いをめぐり様々な問題が生じているのが現状です。教育の目標は、いわゆる健常者や定型発達といわれる子どもが、病いや障害を抱えて生きる子どもを差別せず偏見をもたずに育っていくことですが、こころの機制が逆説的に働いてしまっている場合もあるということです。それでも、“病いは辛いこと”という認識が普及しており“患者は助けるべき存在”であるという認識が人間に存在するからこそ、代理ミュンヒハウゼン症候群は存在するのですが、子どもを犠牲にしてまで自分が注目を浴びたい欲求にかられるのはその保護者の養育環境は望ましくないものだったといえます。すべての人にやさしい世界をつくりたいものです。
著:照喜名通
名前をつけるってとても大切だと思います。人間の発明の中でも素晴らしいものだと思います。人と人とが対話するときに名前があると便利です。
病気の名前についても考えてみます。パーキンソン病やクローン病、研究や発見をしたドクターの名前です。潰瘍性大腸炎、網膜色素変性症、強皮症などは、人体の名称と症状の組み合わせです。見て読んで何となく意味がわかってきます。
しかし、難病の場合、名前がついていてもなんとなくしっくりこない気がします。どうしてかというと、「原因が判らない」等と言われると名前があっても正体不明で不安は解消しません。とは言っても判らないものに対しても名前があるので、面白い面でもあります。
また、分類にも名前をつけています。潰瘍性大腸炎とクローン病を合わせて炎症性腸疾患といいます。
わが国では原因が判らない病気の中で指定した330疾患を指定難病と名前をつけています。4月1日からは、1疾患が追加され、331種類となります。
医療費助成の対象となる指定難病は今後も増えることでしょう、しかしあと何年かしたら原因が解明され指定難病から外される疾患も出てくるのではないでしょうか。なんて希望を忘れないようにしたいです。
慶応義塾大学看護医療学部 教授 加藤 眞三著
健康をおびやかされた状態(すなわち病気)を表す言葉として、疾病(または疾患)と病い(やまい)があります。疾病とは、科学的に客観的にとらえられた病気です。端的にいえば、医学の教科書に従って医師が病名をつけて認めたものということになります。
一方、病いには科学的にはとらえられることのできない部分があり、主観的でもあり、本人が自分の状態をどのようにとらえているかが問題となります。また、社会との関係性や生きる意味などの問題も含めて解決の容易ならざる問題も含めて病いということになります。つまり、医学的な解決(治療)ができない問題も多く含まれます。難病やがんなど慢性病の患者さんにとっての病気は、疾病だけではなくて、病いの部分が多く含まれていることが特徴的です。
さて、病いには意味があるといわれることがあります。その前提として、大いなる存在である神や仏からそれぞれの個人には生きていることの意味が与えられており、病いにも意味が含まれているという考えがあり、宗教者はこのような言い方をします。病いの意味を知ることにより、その人にとっての生きる意味がより深く明瞭に理解できるようになるというのです。
しかし、神様や仏様を信じていない人にとっても同様に意味はあるのでしょうか? そのような人も、病いの意味を考えることは可能でしょうか? 病いの意味を考えることにより、得られるものはあるのでしょうか? 私はその問いかけのどちらに対しても、「はい(イエス)」と肯定的に考えています。
なぜなら、神仏を信じていようがいまいが、人は意味の中に生きているからです。自分の行動していることの意味を意識せずに生きている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。人類は未来にそなえて蓄えることを覚えて豊かになり、文化を創り出してきました。ごく一部の人、その日暮らしのフーテンをのぞいて、人は今を我慢し未来のために努力し働いています。農耕文化はそのような考え方のもとに培われ、私達は幼少時から意味のために、未来のために行動する思考が刷り込まれてきたのです。
したがって、生きることに、意味を求めることが当然のことなのです。そして、人生そのものにも意味を求めてしまうのです。病という人生を脅かされる状態が訪れたときに、病の意味を求めることも当然なのです。
そして、病いの意味を見つけることにより、そこを新たな出発点として生きていくこと、生きる意味を考えることが可能となるのです。
次号に続く
東洋経済オンラインに加藤先生による「市民のための患者学」2週間ごとの連載スタート!
http://toyokeizai.net/articles/-/143366
患者の力: 患者学で見つけた医療の新しい姿
出版社: 春秋社
「患者には力がある!」 毎日を健康に生きるために、そのためにも、真の患者中心の医療を実現するために、いま必要なこととは。
船名Sunfrind3を売却する前は、
那覇市安謝沿岸協同組合の
スロープに陸揚げしてあり、
何時でも天気しだいで出港しました。
出港時間は6時30分~7時出港
ポイントは、風向きで決まり。
(※1)チービシ回り、前島回り、
黒島回り、渡嘉敷島回り、
座間味島回り、釣れる時は、
(※2)グルクン50匹と、グルクンを餌に
ツムブリ2~3キロ3匹とか、
赤仁ミーバイの3キロ台が
たまに釣れる、
他にタマン、シルイユゥ、
他にタコも釣れる、面白いですよ、
船上で釣った魚を刺身に
これがとっても美味い。
早くALSを直して
また沖釣りに行きたいなぁー!
(※1)那覇からケラマ諸島にかけての環礁や島の名前
(※2)沖縄の魚の方言名 グルクン(和名 タカサゴ)
赤仁ミーバイ ハタ類(和名 スジアラ)
タマン(和名 ハマフエフキ)
シルイユー(和名 シロダイ)
難病がある方や家族の方、サポートする方々で日常感じている悲しみ、辛さ、笑い、皮肉や優しさなどを短歌・川柳にしてご応募ください。
採用の方には寄稿料として千円相当のクオカードを進呈します。詳細は事務局までお気軽にお問い合せください。
難病川柳
カレンダー 昔お稽古 今病院
作:てぃーださん(SLE)
カレンダーの書き込みが、昔は習い事などでしたが、歳を重ねるにつれ、色々な科の病院ばかりです。
難病短歌
難病と 戦うことを あきらめて 我が身を許し 今を生きてみる
作:戦う人さん(クローン病)
まだまだ、根治に希望を持ちたいが、戦っていることに疲れたときに、あらゆる怒りを治めたときに、前が見えてくるような気がする。
「おみおくりの作法」2013年
2013年のイギリス・イタリア合作のヒューマンドラマ映画。
本作の監督・脚本家が、「孤独死した人物の葬儀を行なう仕事」に関する記事を見て、実在の人物に取材をして完成した作品で、高評価を得て、様々な賞も獲得している。
本題の「STILL LIFE」の意味は「静かな人生」映画を見ると、納得できる気がします。
★渡久地 優子{進行性骨化性線維異形成症(FOP)}★
・・・カラーセラピーやパワーストーンも好きで、時々、ネットで見てます。
一年で一番、日数の短い2月の最終日は、希少・難治性疾患の日(Rare Disease Day)です。難病の治療や研究を社会へ啓発するため、このイベントが国内だけでなく、世界各地で開催されていることを詳しくは知りませんでした。
今年は、県内の各患者会の団体活動の紹介や個別相談コーナーも設けるということだったのですが、ALS関係者以外の方々にブースを設け情報発信する事は初めてだったので、ALS協会としてどのように対応したらよいのか戸惑いもありました。ですが、アンビシャスのサポートもあり、会報誌や資料、DVDの映像を映したりと、なんとか準備することができました。
なかなかお会いする機会のない、他団体の方々とのおしゃべりタイムは楽しく充実の情報交換ができました。また、ALSの療養にかかわる方々との新しい出会いもあり、今後の活動につながるRDDの参加となりました。
新緑に包まれた4月、学校、職場とそれぞれに新入生、新社会人を迎えフレッシュな雰囲気にあふれ、年度替わりに関係ない方も不思議と新鮮な気分になる時期ですね。
さて今月の「表紙は語る」は若年性特発性関節炎を中学校の頃発症し、その後、線維筋痛症まで併発したお嬢様を見守る母親の三宅さんにご執筆頂きました。成長期の子が苦しい療養生活を送る姿を見守るのは母親として身を切るような辛さだったと思います。
そのお嬢様が成長し、今では医療ソーシャルワーカーとして、いろんなご病気の方を支える仕事に就かれ、親としてはまさに感無量だと思います。
話は変わりますが、4頁でご報告のRDDin沖縄。従来のパネル展示による難病の説明に加え、今回は7つの患者団体とハローワーク那覇様のご協力を頂き、各々の活動案内の他、各患者団体の相談コーナーやハローワークによる就労相談コーナーを設置しました。
それぞれのコーナーとも情報交換やご相談者が途切れず、盛況の中に終了しました。
ご来場の皆様ありがとうございました。来年も開催しますので、多くのみな様のご参加お待ちしています。
文 仲村明
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