難病になって、これまでに感じたことのない孤独感にさいなまれる事があります。それは発病して間もない頃は強烈に。
そして、数年経過して、重度障害者としてこの生活になれた今でも、ふとした瞬間にやって来ては、しつこいぐらいに付きまとってきます。
その孤独感とは、難病になった人にしかわからない、闇深いものと言いましょうか。健康な時の心理状況とは全く異なるのですから、その孤独感を理解することは難しいと思います。
しかし、ALSを患い4年がたち、私なりに理解したことは、「孤独を感じても決して一人じゃない」ということです。
そして、「一人でも分かろうとしてくれる人がいることが力になる」のです。
9月1日は防災の日でしたね、日本は自然災害の多い国です。
「地震、津波、火山、台風、豪雨、川の氾濫」等々。つい最近も九州豪雨で大きな被害がありましたね。
人は何のために生きているの?
希望を持つため。
希望がなくなったらどうするの?
希望は無くならないよ、ただ見えなくなるだけなんだ。
人生は誰のためにあるの?
自分のため。
周りの大切に思っている人の為にあるんだ。
だって人は一人では生きていけないものだから。
生きてさえいれば、人生なんて案外何とかなる。
京都ALS女性委託殺人事件があり、私自身もALS当事者として色々と考えるきっかけとなり、散々いろんな事を考えました。
そして、以前観た映画の言葉を思い出しました。それが、冒頭の言葉です。
私が特に好きなのは、「人は何のために生きているの?希望を持つため。希望がなくなったらどうするの?希望は無くならないよ、ただ見えなくなるだけなんだ。」と言う所です。
時には、希望を見失ってしまいそうになる時もありますが、この言葉を思い出して焦らず、のらりくらりとやり過ごす術を得ることが出来たのかもしれません。
9月1日は防災の日でしたね、日本は自然災害の多い国です。
「地震、津波、火山、台風、豪雨、川の氾濫」等々。つい最近も九州豪雨で大きな被害がありましたね。
なぜ逃げ遅れてしまうような事が起こるのでしょうか。
災害心理学で「正常性バイアス」という用語があります。被害が予想される状況でも、自分に都合の悪い情報を無視、または「自分は大丈夫」「まだ大丈夫」と過小評価して逃げおくれてしまうそうなのです。
新型コロナウイルスでは、無関心な人ほど罹患(りかん)しやすいのと同じで、自助努力なしでは防災や災は実現しません。決して他人事ではなく危機感を持ち、「自分の住んでいる場所について情報を集めて、非常食や蓄電池など防災グッズを備えて、我が事として心構えをしておくこと」が大切ですね。
世界的な流行になった新型コロナウイルスで、皆さんの生活に影響があると思いますが、私にも影響がありました。
終息までは外出制限させて頂きたいと訪問介護事業所からの通達があり、ヘルパーの外出支援が出来ない状態が続いています。(今日3/13で3週間経ちます)
マスクはもちろん、消毒用エタノール、使い捨て手袋まで品薄状態で入手困難となりました。
私は人工呼吸器をつけていますので、消毒用エタノールと使い捨て手袋は必要物品です。まさかこんなに大事になるとは、正直なところ思っていなかったです。
平和ボケしていて危機感がない自分が怖いです…
今回の事を教訓に、普段から自己免疫力を高める生活を心がけて、物品についても代用品で柔軟に対応出来るように知恵を働かせながら、日常生活を過ごしてみようと思います。
早く新型コロナウイルスの特効薬やワクチンが出来て、重症化がなくなる事を願うばかりです。
私は人工呼吸器を使用しているので声を発するとは出来ません。でも口文字と言う手段で意思の疎通をとることができ、私は喋ることができるのです。
しかし口文字が通用しないと、たちまち私は喋れない人になってしまいます。
時には伝わらない苛立ち、わかってもらえない孤独感に心が占領されてめげそうになることもあります、そんな時は心を落ち着けてから仕切り直しです。
私は発信をし続けること、受け取り手はサインを見逃さずに受け取る、大切なのは決めつけないで諦めないことです。
そうすることで、私は喋ることが出来るようになるのですから。
※口文字とは口の形や瞬きなどその人のしやすい合図により、伝えたい言葉を表現してそれを読み取るコミュニケーション手段である。
9月23日3時からモアイを開催しました。
場所は、去年新築した僕の家。
メンバーは20歳の頃から今現在61歳まで31年続いている。
モアイ仲間9人、僕もその中の1人です。
1年ぶりに顔見て楽しく、2人は酒を飲みすぎて、
ベロベロに酔っておいしかったはず。
残りの仲間はビール、僕もビール2本。
みんな盛り上がっている途中で僕の腹具合が悪くなってしまい、
そこでモアイはおしまい。
※モアイ(模合)…
沖縄独特の親睦を兼ねた相互扶助システム。
毎月、決まった金額を集めて、それを順番に毎月メンバーの誰かがもらうという仕組みです。
今年の浜降りは
終ってしまいましたが、
来年、旧暦3月3日の浜降りは
チービシの神山島、ナガンヌ島へ
いって見ませんか。
神山島の桟橋を下りて、
右に行くと石がいっぱい、
そこには、シャコガイがいます。
更に砂浜を
まっすぐ1kmくらい行くと、
そこではコマガイ(ティラジャー)
10キロは取れる。
神山島船乗り場は、
安謝防波堤渡の、
丸沖渡し船と、
太陽渡し船があります。
船賃は二千五百円だと思います。
僕も行きたいな。
自分では身動きひとつ取れなくなり、
寝たきりになる事が多くなった
ある時から、私に変化がおこった。
それは病院に入院している
時のことです
動かない身体の代わりに
聴覚が進化しました。
物音に敏感になり人の声を
聞き分ける事はもちろん、
足音で誰かも分かるようになりました。
それは実に面白い事でした、
動くことはできずとも
病室の外での出来事を
感じ取ることができるのだから。
人体は何か機能を一つ失うと、
他の残された器官の機能が
研ぎ澄まされ補おうとすることを
身をもって経験したのです。
人の体って不思議で面白いと感じた、
からだの変化でした。
ALSを発病して早5年余り、
今ではもう両手両足も動かなくなり
「伝の心」もマユの上にピエゾセンサーを
張り付けて操作しています。
最近飲み込みが悪いせいか、舌ばっかり噛んで、
舌から血が出るくらい毎日噛んでいます。
チキンが大好きで、ケンタッキーチキンの皮と
軟骨が大好きで、いつも強く
舌を噛んでいます。
ぼくの夢は早くIPS細胞から、
ALS使用可能の細胞と薬ができて、
大好きな沖釣りに行く事です。
約1カ月置きに自由が効かなくなっていく体。
毎日静かに進行し、それまで動かせていたはずの
体のパーツが思うように動かせなくなっていく
体と付き合いながら思う
『無事にひと月過ごせた喜びと、また一つ動かなくなる体、悲しみにも似た悔しさ』
心で叫ぶ、
これ以上は進行しないで欲しいと。
そして願わずにはいられないんだ、進行抑制や予防薬だけではなく
病状が進行した人でも完治させることのできるお薬が開発される事を…
今回外出は泊港の「※イユ町」へ、
今回に限り第3水曜日は
店舗が半分休みで、魚は、少ない
あまり良い魚が無く、貝類も少ない。
中国人と、台湾人の、観光客が多く
大型観光バスが4台、
観光バスの添乗員さんが
しっかりしていたら
もっと楽しかったはず。
僕らが食事中、側に座った中国人が
僕らのとこに少しずつ
幅寄せしながら座った。
やっぱり中国、台湾人は
たくましいですね。
食事も終り、西洲(イリジマ)
から出て新しくできた
西海岸道路を使い牧港迄帰る。
混雑も少なく、眺めもきれい
とてもいいですね。
※イユ町・・・魚町の意、沖縄方言で魚の事を「いゆ」という
私は浦崎綾乃、今年37歳です。
家族は2歳年上の夫、小学2年生の娘、4歳になる息子の4名家族です。
私の身体に異変が起きたのは2年前の夏頃、はじめは左手での物の持ち上げにくさを感じる程度でしたが、あっという間に病は進行して昨年6月に胃ろう造設、昨年12月に気管切開、人工呼吸器装着し寝たきりとなりました。
ALSと言う病は凄い速さで私の身体を蝕み身体を動かす自由を奪っていきました。
幼い子供達を抱きしめる事も優しい声で話しかける事も出来なくなり、子供達の事を思うと涙が溢れない日はありません。ですが無邪気に笑う子供達、私の代わりに主夫となり慣れない家事育児に加え介護に日々悪戦苦闘しながらも支えてくれる夫のおかげで自分らしく生きていこうと思えました。
(12月の第3水曜日)は外出日、
今回は奥武島へ
天ぷらが美味しいと聞いて、
看護師さん、ヘルパーさん2人、
家内と僕、五人で、出掛けました。
天ぷらは種類がいっぱい有り、
注文してから作り始める為、
アチコゥコゥ(*1)確かに美味しい、
海ブドウの天ぷら初めて食べ、
海ブドウの味はわかるが、
天ぷらの味がわからない、
けど美味しい、モズクの天ぷらも
味がわからない、豆天ぷらが
柔らかく美味しかった。
食べてる内に野良猫が、
周囲に15匹から20匹集って
天ぷらを狙っている。
危ない、早く天ぷら持って逃げろ。
来月も奥武島へ、
野良猫と同じ大きさの
番犬二匹連れて行きます。
*アチコゥコゥ(沖縄方言:熱い、ホッカホッカ)
船名Sunfrind3を売却する前は、
那覇市安謝沿岸協同組合の
スロープに陸揚げしてあり、
何時でも天気しだいで出港しました。
出港時間は6時30分~7時出港
ポイントは、風向きで決まり。
(※1)チービシ回り、前島回り、
黒島回り、渡嘉敷島回り、
座間味島回り、釣れる時は、
(※2)グルクン50匹と、グルクンを餌に
ツムブリ2~3キロ3匹とか、
赤仁ミーバイの3キロ台が
たまに釣れる、
他にタマン、シルイユゥ、
他にタコも釣れる、面白いですよ、
船上で釣った魚を刺身に
これがとっても美味い。
早くALSを直して
また沖釣りに行きたいなぁー!
(※1)那覇からケラマ諸島にかけての環礁や島の名前
(※2)沖縄の魚の方言名 グルクン(和名 タカサゴ)
赤仁ミーバイ ハタ類(和名 スジアラ)
タマン(和名 ハマフエフキ)
シルイユー(和名 シロダイ)
ALSを発症する前は
沖釣りが大好きで、
プレジャーボート
(全長23フィート、エンジン140PS、
定員10人乗り、船名Sunfrindo3)
を持っており、
仕事の合間に釣りに出掛けたり、
仕事のめどがついたら、
従業員五人を連れて
釣りに出掛けたりと、
コミュニケーションをとるのに
最高でした。
ちなみに僕は型枠大工の
親父をやっており、
現場監督さんと
日曜日には良く釣りに
出かけました。
ALSを発症後、
船は売却し、
手元には在りません。
11月の第3水曜日、
外出は糸満お魚センター
お魚センター行きのメンバーは
10月と同じで、ヘルパーさん2人と
看護師さん1人、家内と僕。
別車には父と母、
愛犬のプードル2匹も一緒だ。
台風が接近する中いざ、
現場へ到着すると天気は晴れ、
今まで4、5回天気予報は雨でも、
外出するが雨は降らず、
鉄さん晴れ男だねと
皆によく言われる。
台風接近のせいか、カキは有るが、
帆立、シャコガイ、サザエ、
アカジンミーバイ、サシミ、
台風前で食べたいのが無い、
皆さん台風前には行かない事。
ちなみに、今回も愛犬2匹は
又車酔いでした。
今日は楽しみにしていた外出日。
ヘルパーさん2人と看護師さん1人、家内と僕。
別車には父と母、愛犬のプードル2匹も
外出するのが分かり、甘えた声でひいひい泣くので
いっしょに連れて行く。
場所は読谷村座喜味に有る友達の喫茶店。
到着後、あー失敗、場所は2階に有り、
車椅子では上れない。
愛犬のプードル2匹が車酔いしてゲロしている。
仕方が無い、読谷市街地、飛行場跡ドライブだ。
途中そば屋に入る、スープは美味しいけど、
麺が太く好みじゃない。
今年の9月の中旬頃、糸満お魚センターに、
とても楽しみにしていた外出予定が決まり行ってきました。
前回ライカムへ外出して4ヵ月ぶりになります。
糸満お魚センターには、食べ物は沢山有ります。
もちろん、先に食べるのは貝類から。
カキ、シャコガイ、帆立、海老の塩焼き、魚のあら汁、
他にもいろいろ有りますが、前より飲み込みが悪くなり、
前の半分も食べられるか?
お魚センターは、今回で5度目ですけどやっぱり
何度いっても飽きないです。
今回は、台風18号の接近で雨が心配でしたが、
午前中少し降り午後からは雨も降らず、快適な一日でした。
自宅が完成し2週間、
実家と向かい合わせで6メートルの
中庭に、青々とした芝生が植えてあり、
そこに愛犬のトイプードル、
名前はゴンが来て、うんこして
家内に怒られ、たたかれて
犬小屋に逃げ込む、可愛そうに。
新築の僕の居る部屋は18畳で2階まで
吹抜けで、広々としてとても気持ちがいい。
今僕が居るベッドの下に発電機用の
コンセットが設置してあり、停電時も心配ないです。
今いるベッド左に、中二階の渡り廊下の手摺には、40型のテレビが設置してあり、
足元の1階から2階までコンクリートの打ちっ放し、そこにも50型のテレビが
設置して有り、頭の方には家内の寝室、
2階も寝室、足元の方をそのまま行くと右には台所、左には玄関、
もう少し行くと右にトイレ、
突き当りは洗濯室、左隣は4畳の浴室
とても住み良い住宅です。
利用している看護施設の理事長さんが僕の家に来て「鉄さん相談がある」、
「何ですか」と聞くと
「インドネシアの娘が居るけど、日本語も良くわかるから看護助手として入れようね」と話しが有り、
僕は「良いですよ」と。
翌日から看護師さんと一緒に来た。
日本語は良くわかるし、方言も、民謡も、僕は声が出ないのに口パクで話すとすぐわかるし、仕事が終ると
「ハイ、ヤァカイ、ヤァカイ」※
と方言でいう、とても頭が良く、ほがらかで、いいですね。
インドネシアでは看護師らしく、看護師さんの仕事もよくわかる。
去年の12月から、お産休暇中です。
少し寂しいな。
※「ハイ、ヤァカイ、ヤァカイ」
沖縄方言:「はい、お家に、お家に」家に帰ろうの意味
親父は、丸ボーズ専門のとこや。
僕をベッドに寝かし45度頭を上げ、バリカンで5分刈を4、5回こなし、で専門になった。
もちろん嫁も手伝って15分で終る、
うん、早い、専門になってる。
「親父、次はモヒカンカットだね」
と僕が注文付けた。
頭の真ん中から左右に2.5cm、ひたいから後ろに10cm、モヒカンの周りは、1分刈だ。
ひと月に1度は散髪だ、モヒカン回りは1分刈で、散髪が半年続いた所、モヒカンの髪の長さが6cmに伸びた、
ヘルパーさんが髪を海老のから揚げを2本並べたみたいに、
編み込んでくれた、
うん上等。食べたいぐらいだ。
気管切開が終り、食べ物はほとんどの物が食べる事ができ「先生カーサ・ムーチー食べていいですか?」と聞くと「絶対だめ!」と言われました。
それから3ヵ月後、退院し自宅で少し食べたら、美味しく、何とも無くあれから2年に成りますがムーチーはまだ食べています。
退院後、僕は魚貝類が好きで、看護師さん、リハさん、ヘルパーさんといっしょに、糸満お魚センター(魚町)で、生ガキ、シャコ貝、帆立、赤貝、まぐろ大とろ、海老の串焼きを、3度同じ量美味しく頂き、4度目からは段々量も少なくなり、今では半分以下です。
皆さん、今の内に美味しいものから食べてください。
平成26年12月21日緊急入院となり、23日に気管切開をする事になりました。
急いで弟がクリスマスケーキとチキンを買って来てくれました。
気管切開後ベッドに1日中寝ている為、翌朝には腰痛がひどく痛み止めを飲むとすぐ治まる、毎日その繰り返し。
看護師が体位ドレナージを施行すると関節全部痛い。リハビリの先生がマッサージする時「ん、痛いね、痛いね」と、言いながら顔はよそを向いて強くキュッと曲げ「今痛かったですか?」と、聞く。
そのおかげで今は痛みはほとんど無いです。
入院中、声が出ない為、レッツチャットで、約2ヶ月練習して、その後に意思伝達装置“伝の心”のデモ機で練習をすることになりましたが、もともとパソコン操作が出来たのでスムーズにいきました。
入院中、面白い看護師がいましたよ。
僕のお風呂が終わり病室に戻ると、看護師さんがドライヤーで頭を5秒間乾かして「もういいですか?」と、僕に聞きました。
僕は「自分でわかるでしょ」と、言ったら「手袋してるからわからん」て。「アキシャミヨーィ」。
※「アキシャミヨーィ」…沖縄方言の言い回し「あら、ま」とか「あちゃー」の様な感嘆詞
30年続いている摸合いの幹事さんが、平成24年12月の第3土曜日に25人の同級生を集めて盛大な忘年会を開催してくれました。長い事、会っていない友達も何名かいました。
その内の1人が翌年には亡くなってしまったと、友達から聞いてびっくり、人ってわからないね。
平成25年56才の5月より車椅子利用となり、訪問看護のお世話になっています。その時までは少しは歩く事が出来ました。
ヘルパーさんが自宅に昼食介助に来てくれます。僕は猫舌なのに湯気が出るぐらい熱いし、魚は温めすぎて美味しくなく。お風呂に入れる時は「僕の両わきを掴んで3歩あるいて左に回ってね」とお願いした。だけどヘルパーさんは2歩あるいて左へ回ってしまい、バランスを崩し僕は手の力が無い為、とっさに口でヘルパーさんの手をかんだら「痛い、この人かむよ」言われてしまいました。今まで普通に出来た事が出来ずとても悔しいです。
お風呂が終わり電動車いすに移り、慣れないため自宅の壁はあちら、こちら傷だらけです。
他の空き時間は、弟が机を改造したパソコン台でアパートの施工図の作図と従業員が6人居る為、指示書の作成をしていました。
翌朝8時より朝食は、バイキング、美味しい。瀬戸大橋記念公園へ出発、運転手は妹だ。
瀬戸大橋の架橋工事の全貌や架橋技術などを動く模型や映像により、わかりやすく紹介しています。
施工技術の凄さ1度は見学してください。
瀬戸大橋を渡り与島パーキングエリヤから、瀬戸大橋をバックに記念撮影。
海の幸ふれあい市場へ出発、ランチタイムには有名なうどんを!と、てんぷらうどんを注文するが「う・・・口にあわない」期待はずれだ。
13時に金刀比羅宮に向けて出発、車で頂上まで行き参拝、庭園は砂利が敷き詰められ車椅子も動かない。
弟はふうふう言いながら車椅子を押してくれたが景色が素晴らしかった。
14時30分道後温泉へ向けて出発、ホテル奥道後に到着し、貸切風呂で入浴、疲れが全部取れた。
ホテル宴会場にて海の幸食べ放題飲み放題、腹いっぱい食べた。
僕が「渦潮が見たい」と弟に言った。その時はもう車椅子だ。姪っ子がインターネットで調べ、スケジュールを組んで家族7人で行く、四国渦潮観光旅行。
父、母、僕と家内、弟夫婦、妹、11時10分那覇空港から車椅子で飛行機内へ、スチュワーデスが途中、僕を機内専用車椅子に乗り換えて座席へ案内「優しいね、有り難う」そして神戸空港へ。
11人乗りのレンタカーを借りドライバーは弟と妹、渦潮へ向けて「さぁ出発だ。」
明石海峡大橋を渡り淡路サービスエリアにて、軽めにランチタイムをとり、淡路サービスエリアを出発し、1時間30分後、鳴門観光汽船へ到着。
車椅子に乗り、ワンダーナルト丸へ乗船、渦潮が凄い迫力で渦を巻いている。渦潮の大きさも半端じゃない「ビックリポンヤー」それからホテルへ向けて出発だ。
が、車椅子専用車じゃ無い為、車の乗り降りが大変きつい、ホテル到着だ。弟は3時間連続運転疲れたはず、お疲れさん。ホテル宴会場で夕食は、鍋しゃぶしゃぶ会席、美味しかった。
呼吸器装着拒否を聞き夫が勿体無いと言った。
思わぬ病を患った時、人はなぜか何も悪い事はしてないのにと言う。
歩き方を忘れていた脳は面白い。
支え支えられ、前者はないがまあいいかぁ。
「ただ居るだけでいい」有難い言葉です。
人生は修行に似ているという。
ALSにも修行の暁ってあるのかな。いずれ来るかもしれない閉ざされる冬に暖かいものを沢山取り込んでおこう。
病を気の毒と思うほどに人を見なくなるのは一般的な心情。外見は不幸に見えても内なるものは活きている。介護しながらもウォーキング、三味線、パチンコ、等々楽しんでいる夫は一流のマイヘルパー。
今は言えるよ「貴方なしでは生きていけない」と。
今の幸せがずっと続くそんな暗示にかかっている。
ALSは生きていける病。
ほんの少し過去を振り返りほんの少し未来を見てあとはひたすら今を見つめ、どんな瞬間にも生きている喜びを感じる事というターシャの言葉をたまに思い出しながら過ごしています。
これまで読んで頂き有難うございました。
屋久島観光バスにて、縄文杉を目指して出発、右60センチ左60センチしか空いていない、崖っぷちの、まがりくねった細い山道を大型バスは、ぐんぐん登って行く、すごい、さすがプロの運転手だ。登っている途中、野生の猿とシカを見た。
バスから途中下車、僕も、林道を歩いていると、あちら、こちら、直径1.2メートルの屋久杉が。
「ハンマヨー、ウサキーナーアル、チビラーサヨー。(あれまぁー、こんなにいっぱい、すごいなぁー)」
その後レストランで昼食後は、パシフィックビィーナスへ乗船、午後4時沖縄に向けて出港だ。
喫茶コーナーで暇つぶしに、コーヒーとショートケーキを食べる、夕食は6時30分からバイキングだ、美味しい。
ぜひ一度豪華客船で旅行して見てください、楽しいですよ。
告知を受けた時病名が分からぬ不安から解放され、症状も殆どなかったのでこれから身に起こる事も実感なくわりと冷静でした。
それからはALSについて調べたり患者に会ったり。しかしその後は症状は進み上着のボタンを掛けてもらった時は初めて涙しました。
ALSは進行が早いとはいえ今日明日どうなるというものではなく出来ない事を工夫する時間はあります。
そこで腕が駄目になった私は壁に、ブラシを貼って髪をとき、釘を打ちズボンを上げ下げし、水が飲める様コップホルダーを取り付け、又服の着脱を楽にする工夫をしたり等々。
そのつど子ども達の喝采で、豚もおだてりゃ木に登る状態です。それ故悲しい感情は影を潜め精神的な不安定期を乗り切れました。
それからALSは失い続けていく病、それは明日より今日が良い日でそれが毎日続くという事。こうして10年それなりに良き日で今に至るという事です。
それにしても子供は褒め育てるのが良い、いつかいい事がある。
人に厳しく自分に甘い私。例外はあります。
(豪華クルーズ船で行く屋久島旅行 1日目)
妹が「兄貴、歩けるうちに家族旅行に行こう」といい出し、段取りは全部妹が、父・母・僕と家内、弟夫婦・妹夫婦・姪っ子、家族11人で豪華型クルーズ船、パシフィックビィーナス、全長183.4メートル、全幅25メートル、乗客員数620人、乗組員220人で、4月19日の4時に那覇港を後に屋久島へ向けて出港。
6時30分からレストランでバイキングでの夕食を、美味しい、夜食も有る、そばかラーメン、24時間コーヒーとショートケーキは食べ放題、ダンスホールに弟と2人で行き、久しぶりに踊り20代を思い出した。映画館、プール、カラオケ、マジックショーでは観客100人ほどいた「面白い」他の遊技場いろいろ全部無料、カジノは有料。
船の操舵室見学、凄い装備がいっぱい有る、それから僕は客船の中をゆっくり歩いて全部回って見ました「ホテル並だ、凄い。」 翌朝屋久島到着、桟橋に動くリゾートホテルが接岸、6時30分よりバイキングでの朝食「おぅ美味しい」
11月号へ続く
ある時主治医が「また一人自分の言葉に踊らされた(それでいいのだ)人がいる」と話してくれた。
その踊らされた一人の私は「輝いて生きてください」といって頂きその言葉が生きていくテーマになっています。もう一人の方は「貴方がやってきたことが試される」と言われ彼女のテーマになったかもしれません。
また先生はこうも話されました。「最後まで責任を持つ覚悟でやっている」と。自分の言葉に影響受けた人の生き方を見守っていくという意味かと受け取ったが、それは生きることを後押ししてくれているようで私達の大きな励みになります。
巡り合った医師によってその後を大きく分ける場合があるかもしれないこの病は、希望がないと告げられれば人工呼吸器装着を躊躇し、生きることを前向きに語ってくれたら希望も生まれる。ALSでも人生を諦めない気持ちをもらえる先生に出会える確率
たぶん…ALSに当たる確率よりは高い。
こんにちは、私は西兼盛鉄と申します。生まれは八重山竹富島、昭和32年11月22日生、 今年で58歳になりました。
27歳の時2級建築士の免許を取り、それから型枠大工の見習いを始め、29年間型枠大工の仕事をやっていました。
54歳の7月ごろから筋力の低下を感じ、平成24年55歳の4月沖縄病院で検査入院、その2週間後ALSと診断されましたが、筋力が無いだけでALSの実感は無く、1週間後父、母、僕と家内、妹、弟とALSのビデオを見ました。あ、世の中終りだ、皆で居酒屋に行き、これからの事を話会い楽しくビールを飲みました。
その年6月に30年つづいている、同級生の摸合いの幹事さんが「鉄が歩ける内に皆で旅行に行こう」の一言で、12人の内10人で2泊3日の九州旅行へ行きました。
(7月号に続く)
常人はえてして予期しない不幸が身に起きた時、なんで自分がと思うでしょう。
私もそんな思いがなかったわけではないが、それより思うのです。
眉毛が薄い私は洗顔のたび眉を書くのが面倒で眉墨をしました。
またあまりの字の下手さからワープロを習うつもりが、どうせ習うならパソコンがいいと進められ習うことにしたのです。
保険は高度障害保障タイプにしました。これは身体に異常を感じ始めた時すぐに加入しました。
また発症前引っ越した先は車いすがゆったり通れる環境だった。
このようなことから何故私が、と思うよりも
眉墨をした事、パソコンを習った事、高度障害保険に加入した事、引っ越した事、加えて言えば改修工事から細かな事をもこなし、療養環境を整える事に長ける夫だった事まで、このALSという病に備えてのことだったのかと思ったりする。
そう考えると面白い。
私はALSを発症して10年、現在は全身の筋肉が委縮して寝たきり、呼吸は呼吸器を装着し機械に任せ、食事は造設した胃婁から経官栄養を流し、意思疎通はパソコンその他の方法でとっています。
つまり要24時間見守りの身です。
さてこんな患者の面倒を見て介護してくれているのはわが夫。
同い年の二人がいつの間にか世間で言われる老老介護になりました。
とはいえごたぶんに洩れず老人になったという意識がないのもまた世の常です。
ただ会話は特殊で一文字ずつ繋いでいくので記憶力が必要です。
それを夫は想定内の話はスムーズでも想定外だと戸惑ったりしています。
また私達に必要不可欠なのがパソコン。
フリーズした時指先で軽くチョンとすれば直るのだが武骨な手では難しそう。
それらの歳の壁は高い。
でもよい点もある。介護は慎重丁寧安全にやってくれる。
君ボケたもうことなかれ。
今月よりこのコーナーを松田さんを含め、月替りで複数の方に担当して頂きます。これまでと違うフレッシュなエッセイにご期待ください。
私の今の体調は体がだるく、早く楽になりたいと思うほどきつい。くいしばりもひどく毎日思いきり舌を噛んでは出血を繰り返している。
目の動きも悪くなり、文字板を使うのも難しくなった。
それでもエッセイは続けようと、一文字一文字時間をかけて頭の中の文章を伝え、それを娘がノートに書き留め上手に構成、編集し仕上げてきた。
最近は、目を動かす事すら難しい時が多くなり、思いがすぐに伝えられない辛さ、思い違いを訂正出来ない生活は大変。
5年間毎月書き続けたエッセイを今月で最後にしたい。
一緒にやってきた娘編集長に感謝。
このような場を提供してくれたアンビシャス、支えてくれたたくさんの方々、いままで応援してくれた皆さん、本当にありがとう。
5年間大変お世話になりました。楽しみも苦しみも諸喜田さんの生の声に触れることができたエッセイでした。残念としか言えないのですが、本当にお疲れ様でした。
また、遊びに行きますので、これからも宜しくお願い致します。
照喜名 通
エッセイ集を村長へ私から直接渡したいと保健師に相談したら、立派な贈呈式を準備してくれた。
会場となった今帰仁村保健センターには村長のほか、名護市の保健師と、役場の職員が集まってくれた。村長は挨拶の中で、エッセイ集は多くの人に読んでもらえるように村立図書館に置いておくと言ってくれた。
意思伝達装置レッツチャット、視線入力装置マイトビー、入院時コミュニケーション支援事業ありがとう。これらを利用出来たのも市町村からの支援があってのこと。特にマイトビーのおかげで去年保健所の研修会に参加し発表する事が出来た。
この場を設けてもらった目的は、村長にお礼を言いたいだけではなく、ALSの患者の現実を地域の人に見てほしいとの思いもあった。参加者の皆さん、まばたきせずに皆さんの事を見渡している私にビックリしたでしょう。目のまわりの筋肉が萎縮してまばたきが出来ないのもALSのひとつの症状なんです。
与那嶺村長、忙しいなか一住民のわがままに付き合ってくれてありがとう。
これからも支援よろしくお願いします。
レスパイトとは休息、息抜き、休養などの意味で、レスパイト入院とは、在宅介護をしている家族が休息を取れるよう、一時的に介護の代替を行う医療サービスの事とある。
今回初めて沖縄病院にレスパイト入院をした。普段使っているものはすべて持参、エアーマットも自宅と同じものをと、福祉用具担当の方も一緒に病院に同行し、準備してくれた。また呼吸器管理会社の担当の方も来てくれ、病院の看護師に私の呼吸器について細かく説明してくれた。
看護師から今の体の状態を聞かれ、唯一動く目の動きが悪くなり会話するのが難しくなったと伝えると、作業療法士から最新のコミュニケーションツールの紹介があったり、食いしばりの症状がひどいと話すと歯科衛生士さんを呼んでくれ、口腔ケアマッサージを教えてくれたり、改善出来る良い方法を見つけようと色々提案してくれた。諏訪園先生もわざわざ会いに来てくれ話してくれた言葉は、もう出来ないと諦める事が多くなっていた私も娘もハッと気づかされ、まだまだこれからと奮い立たせる気持ちと元気を貰い、涙が出た。
今回のレスパイトは、娘の介護負担を軽くする為、無理なく在宅介護を続けられるようにとの思いからだ。初めてのレスパイト、自宅と病院との違いに戸惑う所もあったが、気になる所はしっかり話し合いをして、今後も在宅介護を長く続けられるように、上手に利用して行きたい。
「保健師のあなたがやってきたことが試される」
ALSを疑い受診した病院で担当医師から言われた言葉だ。
厳しい言葉に私は戸惑った。これから難病と闘っていかなければならないのにこの言葉と、いろんな思いが頭をよぎり不安で押しつぶされそうになった。無我夢中で車を走らせ着いたのはK先生の病院だった。
K先生は、私が難病を担当していた時、患者支援で良くお世話になった先生だ。連絡もせず突然行ったのに、先生は忙しいなか時間を作って私の話を聞いてくれた。聞き終えて言った。
「確定診断が出たら僕が外来でみるから」
その言葉に胸のつかえがとれた。この事が今の私の心の支えになっている。それを知っている娘は、私のくいしばりがひどく顔が強張っている時、先生の名前をつぶやく。それを聞いた私は頬の筋肉が緩んで笑顔になってしまう。先生の名前を聞くと必ず笑顔になる私を見て娘はたびたび先生の名前を出してくる。
K先生、風邪を引いてないのにくしゃみが出ることはありませんか?(笑)
「おばあちゃんおはようございます」孫娘があいさつに来た。なまりのないきれいな日本語だ。アメリカに住む娘家族が一年ぶりに帰ってきた。孫達の泣き声や足音で家の中が一気ににぎやかになった。
孫は2人、上の子は女の子で4歳、下の子は男の子で2歳。孫娘は人なつっこく、まわりを笑顔にしてくれる。絵を描く事が大好きで私の部屋に入ってきて楽しそうに絵を描いている。 部屋に飾ってある、友人から送られた風景画の絵を真似て木の絵を描いていた。特徴を捉えうまく描いていた。私は壁に落書きされたらどうしようかとハラハラしていたが、その心配をよそに上手に用紙いっぱいに描いていた。
その孫娘が選んだ私へのお土産は、なんとアルマジロのぬいぐるみだった。聞くとテキサスでアルマジロは特別な存在らしいが、なかなか見ないぬいぐるみにビックリした。しかし彼女は、可愛いでしょう?と言いたげにニコニコして私の横にそれを置いた。
下の男の子は人見知りがひどくママ以外抱っこされない。去年は夫の腕の中で眠っていたのに、触ろうものなら「ママ!」と叫びながら逃げるので、いつも夫と追いかけっこだ。一週間も経つと、自分で私の部屋にも入ってきた。
アメリカに帰る日、パパから投げキッスしてと言われて、照れながらしてくれた。嬉しかった。
ここで一句。
「おばあちゃん 孫の笑顔に 癒やされる」
また会えるまでおばあちゃん頑張るよー!
玄関に飾るお正月用の花を夫に頼んだ。
正月らしく華やかで綺麗な花を買ってきた。
娘と「お父さんなかなかやるね」と話すが、よくよく見たら造花の盛り合わせだった。
あぜん。
しかも買ってきた本人、全く気づかず。
それ見て笑いが止まらなくなった。
ここで一句。
“きれいだね よくよく見たら造花だし”
仕事していた頃、生け花を習っていた私には造花を受け入れる事が出来ないため、もう一度頼んで生花を買ってきてもらった。
こんな家族ですが、今年も支援よろしくお願いします。
私の家に実習に来た看護学生が私の部屋を見渡して言った。
「愛が詰まった部屋だね」なんと感性が豊かな学生さんだろう。
私の部屋にはたくさんの写真が貼られている。ベッドの正面にはアメリカに住む孫達の写真が、左側には友人が送ってくれた花の写真と、5月の誕生日に保健師の後輩達から送られたたくさんのメッセージが書きこまれたボードが飾られている。
もうすぐクリスマスだ。
娘が今年もクリスマスの飾り付けをしてくれた。
孫達の写真の横にサンタさんからのプレゼントを入れる大きな靴下が掛けてある。
おばあちゃんは何をサンタさんにお願いしようかな~
えっ?
おばあちゃんにもプレゼントがあるかって?
あるさ~!
おばあちゃんは歩けないから赤ちゃんと同じ、お肌もモチモチだねって言われてるからね、プレゼントが楽しみよ(^^)♪
今年も多くの人に支えられてきました。
皆さんありがとう。
来年もよろしくお願いします。
「こんにちわ いかがですか?」 優しい笑みを浮かべてO先生が入ってきた。O先生は私の訪問診療医だ。毎月二回診察に来てくれる。
なんでも気軽に相談でき、私には頼りになる先生だ。胃ろうとカニューレの交換も自宅だ。交換時の手さばきはスピーディーで正確だ。ほとんど苦しさは感じにくい。
2年前、心臓の動悸が激しくなり精密検査のため3週間入院した事があった。検査の結果異常なしだったが動悸がなかなか良くならず、退院がのびのびになっていた。
その時の担当医は私にこう告げた。
「あなたがこの部屋を独占していると、急患を中部まで送らないといけなくなるから早くよその病院に移ってくれ、 胸のどきどきは、この病気の症状として付き合っていくしかないね。」
私はこの言葉がトラウマとなり、病院に足がむかなくなった。もっとも私は寝たきりなので足がむかないのは当然だが(笑)。
一ヶ月前台風19号が近づくさなか、風邪をひき、体調を崩した。本来なら入院しないといけないのを私の思いを受けとめて先生は在宅で治療してくれた。目だけしか動かない寝たきりの私を1人の人間として扱ってくれるのが嬉しかった。訪問看護師との連携もよく取れている。O先生に最後まで在宅で診てもらうつもりだ。O先生よろしくお願いしますね。
なんでも気軽に相談できるO先生と訪問看護師にターミナルケアまでお願いするつもりだ。
ちなみに動悸はO先生の薬の調整でぴたりとやんだ。
9月4日に行われた北部保健所主催の在宅療養支援者研修会に参加して、私自身達成感と生きる意欲を貰った。体のきつさや娘の介護負担を想うと早く楽になりたいと思っていたところ、下記の事があったからだ。
1、金城妙子先生から電話があったこと
金城先生とは、私達多くの保健師を育ててくれた方で、御歳が100歳を超えている。
私の病気の事は仲間の保健師から聞いたのだろう。わざわざ電話をかけてきてくれたことに涙がでるほど嬉しかった。先生ありがとう。
2、恩納村のかつての仲間が研修会に参加していた事
県と市町村の人事交流事業で私は2年間恩納村で勤務していた。
その時の仲間がわざわざ来てくれた事だ。あの頃から10年以上経つのに忘れないでいてくれた事が嬉しかった。
後輩だけでもなく、これまでお世話になった人達から期待されている事を感じて…私にはまだまだやらなければいけない事がたくさんある。早く楽になりたいと言っている場合ではない。がんばろう!
大型で非常に強い台風8号を自宅で乗り切った。最大風速50メートル、最大瞬間風速70メートルで、今まで出たことがない暴風・洪水・高潮の特別警報が出された。
娘を含め周りから、病院へ非難入院を勧められたが、私はそれを断った。それは下記の理由からである。
その1、夫の兄弟が暴風対策を万全にしてくれたこと。
私の部屋のガラスが割れないように、鉄製の窓枠をとりつけてくれた。
その2、停電に備えてアンビシャスの紹介で発電機が確保できたこと。バッテリーの充電器も準備している事。
その3、電気関係に詳しい夫の兄が、家に泊まりこんでくれたこと。
その4、停電時の対応について、学習会を積み重ねてきたこと。
去年、保健師の計画で呼吸器管理会社の担当者を交え、ヘルパーを含めて何度も学習会を実施していた。
今回の台風はアメリカでもニュースになっていたようで、テキサスに住んでいる娘からも電話があった。風は心配したほど強くはなくホッとしたが、雨が凄かった。各地で冠水の被害が続出した。幸い私の家はなんの被害もなく、停電も最長1時間だけで済んだ。
日頃はのんきで雑な娘が停電時冷静に対応しているのが頼もしかった。台風が去った日の朝、セミの大合唱で目が覚めた。あのセミ達はどこに避難していたのでしょうか? 自宅?(笑)
1日なにもしないでいるのは辛いので、去年7月から日記をつけ始めた。その日の体調や出来事などを記録している。ベッド上で過ごす毎日も、まわりのおかげでネタは尽きない。日記はまわりのみんなにも読んでもらっている。色んな事が起こるものだなと読み返してみて思う。そんな日記の一部を少し紹介したいと思う。
◯月△日(日)
朝カーテンを閉めて清拭をしていたらお父さんが入ってきて、「カーテンを開けたらいいのに」と言った。
「だって覗かれたら困るのに」とヘルパーのTさんが答えた。「ネコがしか覗かないよ」と、お父さん。すかさずTさんが突っ込んだ。「オス猫だったら困るさぁね、諸喜田さん」(上品な顔してよく言うよ)と思い、笑いが止まらなかった。
◯月△日(土)
いたでりつくせりで何の不満もない生活より、お父さんのグチを言って気持ちの変化があった方がいいと娘が言った。良いこと言うよ!私がお父さんにグチを言うのも体のために良い事か?だったらこれからもおおいにグチろう!お父さん、覚悟しといて!
◯月△日(土) 訪問入浴あり。スタッフの3人がそろって三つ編みをして現れた。Tさん、Nさん、K君まで!笑いが止まらなかった。マウスピースが取れた。変化に乏しい療養生活にいつも笑いを届けてくれてありがとう。
~みなさん、これからも楽しいネタの提供よろしくね~
「マイトビーを特例補装具(重度身体障害者意思伝達装置)と認め、その価格を補助します」
役場から通知が届いた。
マイトビーとは、視線で文字をひろい文章をつづったり、会話ができるパソコンだ。
まだ、沖縄ではあまり知られていない機器だ。
病気が進行し、今では動くのは目だけである。
会話や文章を書いたりするのはすべて文字板だけとなった。文字板は、相手が目の動きをうまく捉えなかったり、早とちりをしたりで思いが伝わらないことが多い。
その点、マイトビーは、自分の思いを直接つづることができるのでストレスが少ない。エッセイや日記を書くのも楽になった。
又、メールができるのもいい。 特に、アメリカにいる娘とのメールは、一番楽しみだ。
特例補装具の申請は、各市町村役場で行う。
そのとき、窓口の担当者が、申請者の生活の不便さをいかに受け止めてもらえるかが重要だ。何せ、マイトビーは、高額の機器だ。申請を認めたとしても、果たしてうまく使えるかも気になるのも当然だ。
ALSの年間の発症率は、10万人に1~2.5人といわれている。
現在、私の住む村の患者は私1人である。
重度の障害があっても、住民1人1人を大切にする行政運営がなされているわが村を誇りに思う。
窓口の担当者および関係者、そして村長さん、ありがとうございます。
更に、マイトビーの情報を寄せてくれた患者会のUさん、役場の担当者にアドバイスをしてくれた県の担当者、保健師、ケアマネージャーにも感謝します。
桜を見に行った。半年振りの外出だ。
娘がせめてスカーフでもと頭に細いスカーフをバンダナ風に、胸元には赤いスカーフを三角に折って、おしゃれに結んでくれた。
今帰仁城跡の横を通って、八重岳に向かった。
八重岳の山頂の広場で車を降りた。
透き通るような青い空から降り注ぐやわらかい日差しが頬に心地よかった。
桜の濃いピンク色が青い空に映えてとてもきれいだった。
今回は、アメリカテキサスに住む娘家族も一緒で、記念の写真をたくさん撮った。
3歳の孫娘は、喜んではしゃぎまわっていた。
来年も、孫たちと桜の花見ができますようにと祈る気持ちを胸に抱きながら、帰路に着いた。
私が外出するには、介護タクシーをチャーターし、車椅子の準備、呼吸器、酸素ボンベ、吸引器等持参するなど道具も人手も必要だ。
さらに、超多忙な訪問看護師の日程調整も大変だ。
10分でもいいから気軽に庭に出て、草花を眺めたり愛犬クマの顔が見られたらいいな~
最大風速50M、瞬間風速70Mの台風24号が、沖縄を直撃するという予想がテレビから流れた。
娘は恐いから病院に避難入院しよう、と言った。しかし私は「家に居たい」とそれを断った。
結果的に台風は何事もなく通り過ぎていった。
台風時の停電対策は以前から保健師の協力をえて取り組んできた。
呼吸器の会社の担当者から、説明ばかりだけでなく、実際に酸素ボンベの繋ぎかたやバッテリーの交換を家族やヘルパーに対して説明会を何度も実施してきた。
また発電機やバッテリーなど関連機器も揃えている。でもガラスが割れたらどうしようと娘は心配していた。
それにたいして夫の兄弟が窓に金網を張ってくれた。
また台風で官公庁が業務停止になったにもかかわらず、A事業所が所長の送迎付きでヘルパーを派遣してくれたのにはとても嬉しかった。また電気関係に詳しい夫の兄が当日我が家に待機してくれた。
このように身近な方々に支えられて私の在宅療養は続いている。関係者に感謝。
「パチッ」…部屋が真っ暗になった。停電だ。夫が吸引しようとした時だった。
部屋には、夫と介護の手伝いに来ていた妹と三人だけいた。
夫は慌てて懐中電灯を探し回った。電灯は見えやすいテレビの横に置いてあるのに、パニックをおこしなかなか見つけられない。
やっと見つけて妹に渡し、自分は急いで酸素のくだをボンベにつなぎかえた。これでまずは一安心。私の呼吸は確保された。『あっぱれお父さん!』
電気に詳しい夫の兄弟がすぐに駆けつけてくれた。停電しているのは我が家だけだという。兄が停電の原因探しを始めた。配線を一本ずつ確認した。すると、配電盤にヤモリが入り込んで感電してのびていた。
まさかヤモリが原因で停電するなんて!考えてもみなかった。
停電は2時間にもおよび、完全に回復したのは午後10時であった。
あの時夫一人であったらどうなっていたか…何かあると、すぐ駆けつけてくれる兄や弟達に感謝!
今回の停電直後、担当の保健師が関わっているヘルパーを対象に研修会を開いてくれた。呼吸器の管理会社の担当者とアンビシャスの照喜名さんに来てもらい、実際に酸素のくだへの取り換え、呼吸器バッテリーの交換、その他電気の確保法を指導してもらった。素早い取り組みがありがたかった。
ちなみに停電時私はどうしていたかというと…冷静に夫の動きを見ていた。自発呼吸が少しあるのと、呼吸器もバッテリーに切り替わって10時間は大丈夫だ、という事を知っていたから冷静でいられたのだ。
停電の原因であったヤモリは災難だったが、台風シーズンを前に、停電の予行演習が出来た事にむしろ感謝すべきかも知れない。
アメリカにいる娘に二人目の子供が産まれた。様子を伝えようと早速動画が届いた。パパに抱かれて大きな声をあげて泣いていた。元気な男の子だ。
一緒に見ていた夫は、男の子の誕生がよっぽど嬉しかったのだろう。嬉しさのあまり、そっと涙をぬぐっていた。
故郷を離れ、仕事をしながら二人の子供を育てるのは大変だと思う。娘と子育てについて色々話が出来ないのがくやしい。体は動かなくても、せめて言葉が話せたら…と思う。
その事を知った末の娘が言った。
「言葉が話せなくても文字板や表情でお母さんの気持ちは、しっかりと伝わってる。こうやって毎日おしゃべりしてるでしょ?」と言ってくれた。娘の気持ちが嬉しかった。
今年の夏、二人の子を連れて里帰りする予定との事。早く孫に会いたいな。
久しぶりに我が家に戻った。窓の外に目をやると、一羽の小鳥がじっとこちらを見ていた。 そしておもむろに飛び、窓まで近づいてまた元の小枝に戻っていった。まるで「おかえりなさい」と言っているようだった。
入院前に娘が毎朝パンをちぎって与えていた小鳥だ。またパンをあたえなくっちゃ。
夫や娘は、周りのサポートを受けて介護を頑張っている。私はやりたいことは色々あるが、体が思うように動かない。
でも、泣き言を言わずに前向きに病と向き合わなければ…。
あの小鳥の訪れを楽しみにしながら…。
胃の中になにか入れると胸が苦しくなるので、検査入院した。
心臓のエコーなど色々な検査を受けた。そのなかに胃カメラの検査もあった。機械を病室に持ち込んで検査が行われた。
皆さんは自分の胃のなかを見たことがありますか?普通は鎮静剤を注射して眠ったまま終わってしまうものだ。私は神経が高ぶって寝ることができず、目の前に映し出される自分の胃のなかをまばたきもせず見つめていた。すると約2センチくらいの丸い物が胃の壁からぶら下がっているのが見えた。先生は何も言わなかった。なんだろう?
それはカメラのライトを受けてキラキラと光っていた。まるで真珠のように見えた。
わかった!あれは胃ろうが抜けないようにしている水の入ったバルーンだ。
私の命を繋ぐ真珠より大切なものだ。バルーンが真珠みたいに見えるように思えるという事は、まだ頑張れる力が残っているということかも。でも体のキツさは良くならず、かえって悪化するばかりだ。笑顔が消え、眉間のシワが更に深くなった。お見舞いに来てくれた友達の皆さん、笑顔が見せられなくてごめんなさい。
早く良くなって本物の真珠を身につけて出かけたいものだ。
裏庭の木々が風に吹かれてゆらゆらゆれている。時々小鳥が餌をもとめてやってくる。
また近くに住みついているのだろうか、子猫がそろりそろりと草むらを横切っていく。
室内に置かれたものは、どんなに綺麗な花でも動きがない。その点窓越しに見える景色は動きがあって見ていて楽しい。
元気な時は目にも止めなかった景色だ。
三年半前、病気の告知を受けた時、呼吸器をつけるのは当たり前と思って去年、それをつけた。
たしかに呼吸は楽になった。しかし筋肉の萎縮による筋力の低下で体のきつさは 想像以上だ。家族の介護負担も考えると、この選択がよかったのか…と考えてし まうことがある。
自分の体がこれほどまでに重いとは…
これからどれくらいこのきつさと付き合っていけばいいのか、呼吸器をつけなければ良かったと思うことも何度もあった。
でも一所懸命支えてくれている家族会の方々や保健師、アンビシャス、友人など 多くの仲間がいる。
泣き言を言ってはいられない。裏庭にやってくる小鳥を見て気分をきりかえている。
頑張らなくちゃ!
12月、やっと退院することが出来た。愛犬のクマがしっぽを振って迎えてくれた。9ヶ月ぶりのわが家だ。
玄関の横の花壇にはホウセンカの花が手入れされないまま我が物顔で咲き誇っていた。
部屋の入り口にはクリスマスツリーが置いてあり部屋はクリスマスの飾りつけがしてあった。
忙しいなか娘がやってくれたのだ。娘の心遣いが嬉しかった。
ここでいよいよ呼吸器をつけた在宅療養が始まった。
不思議と呼吸器を付けているという違和感はない。すっかり体の一部となったようだ。
緊急搬送時に備えて自宅まで救急隊員に来てもらい、呼吸器などの取り外し方を訪問診療の担当医から説明してもらった。
これからは地域の方々の協力を得ながら療養を続けていかなければならない。
退院して三週間、今のところ大きなトラブルもなく過ごしている。
しかし家族の介護負担は想像以上に重い。慣れるまでは頑張るしかない。
退院当日、県内各保健所の保健師の皆さんから届いたという励ましのメールを集めて綴ったファイルを保健師Tさんから貰った。
辛くなった時、それを思い出せるようにといつもベッドの横に置いてある。
みんなの心遣いに感謝。
“退院” なんと複雑な響きを持つ言葉だろう。本来なら喜ぶべきことでしょうが、私の心は複雑な思いでいっぱいだ。
これから今まで経験したこともない人工呼吸器をつけての在宅療養が待ってるからだ。
一番気になるのは夫や娘の介護負担がこれまで以上に増すことが考えられる事である。
そんな私の心配をよそに娘はこう言った。
「家に帰ったら朝に鳴く鳥の声、番犬として頑張って吠えるクマ(我が家の愛犬)の声、お父さんの三線も聞こえて賑やかだよ~」
なんと前向きな考え方なんだろう。我が娘ながら感心した。娘がこんなに介護に前向きになれたのは、家族会やアンビシャス、保健所の方々を始め多くの人の支えがあるからだ。
特に保健師のSさんは身近で気軽に相談できると一番頼りにしている。
退院後はヘルパーの派遣時間が減るという。家族の介護負担が更に増す事になる。
先月号に掲載された神戸の岡本さんは、かつて呼吸器をつけたまま1人暮らししていたという。我が山原の地域でも早くヘルパーの24時間派遣の体制が整う事を願っている。
主治医のM先生が私の口元を見て“あらステキ”と一言。冗談とわかってはいるが、やさしい先生の語り口に私もにやり!
歯を食いしばる症状が悪化し、歯ぐきを傷つけないためにマウスピースをつけている。しかも素材の関係で鮮やかなグリーンだ。
どうみても異様に見えるそれを“ステキ”と言える先生のユーモアに脱帽!
いまだに治療法が確立されていない病と向き合いながらの長期の入院生活で、気持ちがややもすると後ろ向きになりがちである。
このような中で、先生は胃ろう交換などの処置が終わるとOKサインをだしてにっこり笑って、動かない私の手を優しくなでて出ていく。そんな穏やかで優しく、またユーモアを持ち合わせた主治医は、気持ちを切りかえる大きな力となり私にとってありがたい存在である。
私からお返しに一言…
“先生のあごのチョビヒゲもステキよ(笑)”
自分史を綴ったファイルに一枚の写真が貼ってある。秩父宮妃と秋篠宮妃 紀子様と一緒に写った写真である。
平成7年に参加した研修会で撮られたものだ。
それは結核看護に関する研修会で東京の結核研究所で行われた。
全国から20人の保健師が参加し、1ヶ月間行われた。
研修のハイライトは、最終日に行われる結核予防協会 総裁への研修報告会と称した茶話会である。
その年は総裁が秩父宮妃から紀子様に交代する年で茶話会にはお二人が参加し、秩父宮邸で行われた。
写真はその時撮られたものだ。
茶話会にはケーキと紅茶が出され、みんなあっという間にたいらげた。
紀子様もつられて大きなケーキをパクリ!気さくな方なんだなと親しみを覚えた。
先日、その研修会以来交流のある奈良県の友人から便りがあり、楽しかった当時の事を思い出した。
彼女は現在、難病を担当しているという。彼女を介して奈良県の患者と情報交換が出来ればいいなと思っている。
かつての仕事上の先輩から絵手紙が届いた。千日紅(センニチコウ)の絵が描かれていた。まるで生花のようで風が吹くと葉っぱが動き出しそうだ。
今は亡き母も、千日紅が好きだった。庭には一年中その花が咲いていた。久しぶりにやさしい母の顔を思い出した。
私は幼い頃すずらんの花が好きだった。
沖縄では見ることが出来ず、一度は見てみたいと思う憧れの花だった。
初めてすずらんに出会ったのは、新婚旅行で北海道へ行った時である。想像通りの可憐な花だった。
今好きな花は太陽に向かって咲く大輪のひまわりだ。
あの鮮やかな黄色い花びらから、生きるパワーを感じるからだ。
「退院したらあちらこちらの花畑を見に行こうね」
娘は優しく語った。
N先輩、絵手紙をありがとう。
また届くのを楽しみに待ってます。
ドンヒューパッ
夜空に大輪の花が咲いた。
近くの祭り会場で打ち上げられた花火だ。
私はそれを病院の屋上で人口呼吸器をつけ車椅子に横たわったまま見学した。
かたわらでは主治医のM先生が、時々私の酸素を確認しながら花火を楽しんでいた。
入院して4カ月あまり、初めて外の空気に触れた。
体を吹き抜ける風が心地よかった。
その日の昼過ぎ担当看護師から
『花火を見に行こう! 車椅子も確保したよ!』
と声掛けがあった。少し不安ではあったが行くことにした。
この先の退院に向けてベット上で座位訓練を始めていた。車椅子に乗るいいチャンスだと思った。
夜、主治医のゴーサインで車椅子への移動が始まった。まさかこんなかたちで花火が見られるなんて思ってもみなかった。
よくQOLの向上という言葉を耳にするが、今回の花火見学がまさにそれにあたり、今後外出する時の大きな自信につながった。
背中を押してくれた主治医や看護師のみなさんどうもありがとう。
「お母さんのエッセイがある病院でコピーされて読まれてるそうだよ」
先日行われた患者家族会から帰ってきた娘の報告である。
aさんがご主人の入院先の病院の看護師に、以前私が投稿した吸引カテーテル噛み切り事件のエッセイを読んでもらい、病状を理解して対応してほしいと頼んだそうだ。
ALSという病気を理解してほしいとエッセイに込めた思いをaさんが汲み取ってくれたと思う。
これからもALSについてわかってほしい病状や、支援体制などについて思うままに書いていこうと思う。
これが支援する側受ける側の両方の立場がわかる私の役割かもしれない。
★諸喜田 美智代さん(ALS)
「お母さんのことを今日から眉間シワ子と呼ぼうね!」
体位交換中、眉間にシワを寄せ歯を食いしばって指示を出す私に娘が冷たく言いはなった。介護に疲れイライラしたなかで出た言葉である。よく思いついたものだ。
介護負担を少なくするためヘルパーを最大限活用している。入院先の病院へも派遣してもらっている。
言葉が喋れずナースコールが押せないALS患者は常に誰かが側にいることが必要である。病院へのヘルパー派遣の費用は公的サービスが適用されず、自己負担である。現在助成金の制度がある市町村は県内にはひとつもないという。
嬉しいことにわが村が最近その制度の検討を始めたそうだ。ぜひ県内の先陣をきって制度を確立してほしい。
さて、最後に娘のことに触れておきたい。
お母さんのそんな顔など見たくないと言いながら痰の吸引や寝る前の口腔ケアなどよくやってくれる。私にとって、もっとも安心できる存在である。
娘に感謝。
★諸喜田 美智代さん(ALS)
ピーポーピーポーピーポー…
吸引カテーテルを持続吸引中、カテーテルを噛みちぎり救急車で病院へ。
ツバを飲み込む事が出来なくなり、持続吸引をしていた時、カテーテルを噛みちぎってしまった。
夫にそれを伝えようとしたがなかなか伝わらず大パニック!!
病院でCT検査と胃カメラでカテーテルの切れ端を取ってもらった。
頭を支える筋肉が萎縮し、歯を食いしばることが多くなり歯ぎしりもひどくなった。そんななかの事件である。
ALSといえば人工呼吸器が思い浮かぶが、力が入らず歯を食いしばって頭や体を支えている辛さがあることも知ってほしい。
★諸喜田 美智代さん(ALS)
判ってはいるが、なかなか出来ないことが多いです。
いつも追われていて、休まることが少ないです。
夜更かしするな、仕事は終わらない、腹八分で食し、コーヒーお茶はお昼まで、タバコは止めなさい、ect…
「はぁー」とため息が止まらない。
嫁さんからは、あまりにもため息が多すぎるといわれまた、ため息がでてくる。(苦笑)
ため息をすると幸せが逃げると言われるのは、周りへの配慮不足だからだと思う。エチケット。
それは「あくび」も「おなら」もいっしょだね。
あくびやため息は身体の反応ではあるが、意識的に「腹式呼吸」をゆっくりすると良いらしい。
「おなら」は、トイレに行くことをお勧めします。
★照喜名 通
「来週はじめて人工呼吸器を付けたALSの患者さんの介護を担当することになった。
これからの諸喜田さんの為にも より良い介護が出来るように色々考えながら頑張ってくるね。
言葉が喋れない方の思いをしっかり受け止めて支援したいといつも考えている。」
とヘルパーのAさんが語った。
嬉しいの一言では言い表せない意味の深い言葉である。
私が在宅療養を続けられるのは、このように頼もしいヘルパーさん達のおかげである。
4月からヘルパーも一定の研修を受ければ痰の吸引が出来るようになった。多くのヘルパーに研修を受けてほしいと思う。痰の吸引はALSの患者にとって、死活問題だからである。
ヘルパーさんよろしくね!
★諸喜田 美智代(ALS)
先日中部福祉保健所で行われた交流会に娘が参加した。介護疲れで眠い目をこすりながらの参加であった。
帰ってきて、会の内容や様子を笑顔ではなしてくれた。久しぶりに見る娘の笑顔である。
患者家族会の役割はいろいろあると思うが、私にとっては娘が笑顔を取り戻す場となっていることである。
会には同じく母親を介護している同級生もいたとのこと。
患者・家族会の活動がますます充実することを期待する。
私も忘れかけている笑顔を取り戻さなくちゃ。
★諸喜田 美智代(ALS)
エッセイのコーナーを担当して1年。「何を書いてもいいよ」と言われ、軽い気持ちで引き受けたものの、漫画サザエさんのいささか先生状態が何度もあったが、何とか穴をあけずにすんだ。アンビシャスのおかげで、多くの友人から励ましの便りが届いた。その中で思いがけなく届いたN所長からのメールは涙が出るほど嬉しかった。
「陰で多くの仲間が支えていることを忘れないで」ありがたいお言葉だ。
エッセイは、テーマも内容も視野の狭いものなっているが、書くことでややもすると後ろ向きになりがちな自分の気持ちを必死で引き戻しているというのが現実だ。
支えてくれている多くの仲間とこのような機会を与えてくれたアンビシャスに感謝。
★諸喜田 美智代(ALS)
つらいという字に「−」をくわえると「幸」になる。テレビのコマーシャルの一部である。
病気が進行し、トイレへの移動も困難になり家族の介護負担も増してきた。
言葉を失い思いがうまく伝えられず唸り声をあげる私と、思いを受け止めることができず戸惑う夫。
訪問看護やヘルパーを活用しても家族の介護負担は大きい。
我が家は今まさに「辛」字状態だ。
そんな中、夫が盆栽仕立ての小菊の鉢植えを買ってきた。
花はまだ一部咲きだが、満開が楽しみだ。
その香りが「辛」の字に加える「ー」の役割を果たしてくれることを期待したい。
夫に感謝。
★諸喜田 美智代(ALS)
1)部屋でヤモリを見つけた時
「ほらお母さん!友達が来てるよ。お母さんが1人で寂しそうだから遊びに来たんだね」
2)アリが足に這い上がってきているが取り払えずに喚いているとき、
「このアリよ〜間違えて登ってきたんだ~!お母さんの足は大木みたいだからね」
3)思いがうまく伝わらず涙する私に、
「泣くより笑おう!はい笑って笑って~」
これは病気が進行し、介護の負担が増したなかで娘が私に言った言葉の一部である。
ユーモアのセンスのない私にはできない発想だ。
仕事をしながらの介護で、自分の時間がない!ゆっくり寝たい!
と愚痴をいいながらも明るく声かけしてくれる娘に感謝。
★諸喜田 美智代(ALS)
庭に大きな松の木がある。
太い幹から伸びた枝は、庭師により定期的に剪定されいい形を保っている。
ところがその幹にツタがからみついてきた。
せっかく形を整えたのに・・・
切ってしまえと思っていた。
ところが、朝のさわやかな風に吹かれてユラリユラリとしなやかに揺れるツタをみていると、不思議と心が和むのである。
せっかちで意地っ張りな私は、やってほしいことがあると矢継ぎばやに指示を出し、娘を困らせている。
そんな私にツタは、焦らず周りの支援を素直に受け入れるしなやかな心を持てと語りかけているかのようだ。
癒しを求めて出かけることが少なくなった今、朝日を浴びて輝く松の木とツタを眺めるのが私の毎朝の楽しみとなっている。
★平成23年9月20日(月) 諸喜田 美智代(ALS)
アメリカから孫がやってきた。
現在11ヶ月、やっと1歩だけあんよができるようになった。
昨年、病気が進行する最中、これが最後のチャンスとアメリカ行きを決意し、生後間もない孫に会ってから10ヶ月。
髪の毛が薄くどう見ても男の子にしか見えなかったあの頃とはうってかわって、笑顔の可愛い女の子に成長していた。
“ハーフ”にはほど遠い“ウチナーンチュジラー”(沖縄人の顔)である。
あまり人見知りもせず、構音障害で言葉を失ったわたしにもにこにこ笑いかけてくる。
私の車いすにも興味があるようだ。
ならば競争しようかと車いすを動かすと、四つんばいになり必死で追いかけてくる。
さて、その勝負の結果は?・・・
孫とのふれあいは、病気の不安を忘れさせてくれる。
遠い地で暮らす孫に気軽に会うことはできないが、その分、成長の変化が楽しみでもあり、その成長は病気と向き合う上での励みにもなる。
さて、次は何の競争をしようか?
孫が日本語を、私は英語を話せる(書ける)ようになること・・・?
★平成23年8月15日(月) 諸喜田 美智代(ALS)
4ひきの幼虫がゆっくり家の壁をよじ登り羽化が始まった。
背中が割れ、思いっきり
”イナバウアー”の体制で殻から抜け出した。
アッ!
体勢を崩した1匹が地面に落下。
でも大丈夫。モゾモゾと草むらへ消えていった。
ドジなセミ。
ドジでもいい。
私も“イナバウアー”で生まれ変わりたい
★平成23年7月14日(木) 諸喜田 美智代(ALS)
「おはようございます」
元気な声が玄関に響きます。訪問看護師だ。
夫に訪問看護がどういうものなのか、どんなことをしてもらえるのかを知ってもらい、胃ろうや人工呼吸器になった時にあわてないようにと早めに訪問看護を導入することを決めた。 入浴を介助してもらいながら血圧等一般状態の確認や療養に関する相談に乗ってもらっている。 丁度、住宅改修をすすめている最中で、てすりの設置場所についてもアドバイスしてもらった。 ソフトな語り口のAさん、笑顔がすてきなBさん、時々忘れ物をする慌てん坊のCさんなど、訪問看護師さんにもいろいろ個性があり、彼女たちに会うのが楽しみであると共に、かつて支援者であった私自身が、今、直接支援を受ける立場になり、その存在がいかに重要かをも実感しているところである。
在宅で高度な医療が必要なALS患者にとって、訪問看護はなくてはならないサービスであり、家族にとっても療養について気軽に相談できる安心できる存在である。 しかし、沖縄県看護協会の調査によると、訪問看護師の確保が難しいという現状があるという。 どこに住んでいても安心して在宅で療養できるよう、県看護協会が取り組んでいる訪問看護支援事業の充実強化に期待したい。
★諸喜田 美智代(ALS)
キューン、キューン、キリキリー
歯医者さんの器械の音である。
一般的にあまり歓迎されない音で、その音が嫌で歯医者に行くのをいやがる人も多い。
舌萎縮により口の中に食べ物が挟まるとなかなかはき出せず、痛みはないがいくつかある虫歯の進行が気になり歯医者に行くことにした。
構音障害や咀嚼障害、嚥下障害などの症状を抱えた私を受け入れてくれる歯医者はあるだろうか?
歯科治療を受けるに当たり、「かかりつけの歯科医」を持たない私はハタと困ってしまった。
障害者に理解のある歯科医院はないかと保健所に相談したところ、「障がい者歯科地域登録医院」があることを知った。一定の研修を受けて障害者を積極的に受け入れている歯科医院のことである。
その中のひとつ、O歯科で治療を受けることにした。
水が少しでものどにかかると、「ゲェー」と過剰に反応する私に、M先生は「あわてないでゆっくりいきましょうね」と私のペースにあわせて丁寧に対応してくれる。
O歯科は障害を持つ私にとって安心して治療を受けることができる場所となっている。
沖縄県歯科医師会の「障がい者地域登録医院」制度の取り組みに感謝!
★平成23年5月20日(金)作者:M.S(ALS)
「体が重くて歩けない!」
顔をしかめる私に娘が一言。
「ミチに来てもらって競争したら?ミチもハイハイの練習ができていいんじゃない」
ミチはアメリカに住む孫娘で現在7ヶ月、まだ、ハイハイがうまくできないという。
病気が進行し、部屋の中をソロリソロリと歩く私に、娘はふざけてよく声をかけてくる。
「はい、イッチニ、イッチニ、まだ歩けるさ~」。
それには私もつい笑ってしまう。
頭では病気と前向きに向き合いたいと思いつつも、時々、気持ちが落ち込む私に、「まだ歩けるさ~」と明るく声をかけてくれる娘の言葉はありがたい。
できなくなったことを嘆くより、できることに喜びを感じ、プラス思考で病気と向き合うことが自分の気持ちを楽にし、周りの介護負担の軽減にもつながることになる。
娘の明るい対応に感謝し、孫と競争できる日を楽しみに、今日も「イッチニ、イッチニ」。
★平成23年4月19日(火)作者:M.S(ALS)
車庫の取り壊しをしているユンボがうなりをあげている。
玄関脇の木の下では、愛犬の”クマ”がユンボに向かってほえている。
私は、一人、居間で友人達から退職記念にもらったフォーク全集のCDを聞きながらパソコンにむかっている。
「君の行く道は果てしなく遠い・・・♪♪♪」
1年前までは支援者であった私が今は支援を受ける立場にある。
初診時、沖縄病院の担当医から言われた言葉が頭をよぎる。
「あなたが保健師としてやってきたことがこれから試される」と。
支援者と支援を受ける側の両方の立場がわかる者として、今後、どのように病気と向き合うか?
CDの曲が変わった。
「あせってみたって同じこと・・・助け合おうぜ 世の中は 気楽に行こうぜ・・♪♪」
回りの助けを素直に受け入れ、肩肘はらず、前向きに、気楽に行くのもいいかも知れない。両方の立場がわかる者としての役割を探しつつ・・・。
★平成23年1月29日(土)作者:M.S(ALS)
「明日は何にする?」
夜、寝る前に夫が私に聞く。翌日の娘の弁当のメニューだ。
「明日は、ソースカツ、ミックスベジタブル、豆腐の甘辛煮。人参は縦に切って・・・」といちょう切りの説明する。
「人参を縦に切ってそれを更に縦に切って・・・」人参を持ち出して、手真似で説明するも「わからんさ~」。
構音障害があり会話が困難な私の説明がなかなか夫に伝わらない。
二人のやり取りを聞いていた娘が部屋から出てきて、日頃、使っている簡易筆談器を取り出して絵にする。あまり上手でない絵に爆笑。
”いちょう切り”・・・料理をしている者にとってはとても簡単な事なのに、慣れない人に伝えるのは容易ではない。
左手の筋力低下で両手が使えない私に代わって、野菜を洗ったり切ったりの下ごしらえは夫の役割である。
朝が早い夫は、それらの準備をしてウォーキングに出かける。
準備された材料を使って私は弁当を作る。
これが我が家の毎朝の光景である。
出来上がった弁当を見て、娘が一言「ちゃんと切ってあるさ~」
★作者:M.S(ALS)
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